日本人か外国人か

 昨日、快速隣の駅前で宴会。駅南の居酒屋の裏座敷で旧交を温める。のれそれが美味かった〜。

 今朝、パソコンを立ち上げたらこんな記事が目に飛び込んできた。
稀勢の里が大相撲を日本人の手に戻してくれるという期待への「違和」 静かに広がるナショナリズムの正体》
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170326-00051298-gendaibiz-bus_all&pos=1
 ジャーナリストの森田浩之氏が、稀勢の里の辛勝にわく相撲ファンに違和感を抱いている。時間のあるかたは読んでみてくだされ。長いので少しまとめてみますね。

稀勢の里が優勝してうれしいのはナショナリズム
稀勢の里が日本人にもたらしている最大の恩恵は「日本人であることへの安心」。
朝青龍の追放劇は、無意識の排外的感覚が発動された結果である。
白鵬はがんばって大相撲を支えてきたのにファンから報われていない。
相撲ファンは「日本の相撲が日本人の手に返ってきた」ことを喜んでいる。
○「日本出身横綱」だという理由で、稀勢の里を注目するようになった人は多い。
○「稀勢の里ナショナリズム」が、多くの日本人に安心感を与えている。それは土俵のまわりだけに漂う静かで罪のないナショナリズムだ。

 おおむね森田氏の発言のとおりだと思う。「静かで罪のないナショナリズム」で、大相撲人気が再燃するならばうれしい限りだ。そこは森田氏も同様だが、浮かれ騒ぐ日本人に「あえて書くなら」と前置きしながら「日本出身力士」について問題提起している。文章を引く。
《高安と御嶽海はいずれもフィリピン人の母親を持つハーフだ。もちろん、2人は「日本人」である。しかし、このあたりを突き詰めていくと、「日本人力士」だとか「日本出身力士」といった線引きが、なんともあいまいなものに思えてこないだろうか。あるいは「モンゴル出身横綱ばかりでは寂しい」といった見方が、どうでもいいものに感じられないだろうか。》
 それは違う。
 かの大横綱大鵬は、ロシアとのハーフであった。しかし、日本人は心より大鵬を愛した。「巨人大鵬玉子焼き」であり、死してなお多くの相撲ファンに慕われている。そもそも日本人はハーフだろうと、どこの国のうまれだろうと、そのことに関してはさほど重要視していない。例えば、同じモンゴル出身の旭天鵬は多くの日本人に愛された。なぜか。それは旭天鵬の相撲が綺麗だったからである。勝つためにはどんな手でも使い、敗者に対して情け容赦のない態度を見せるモンゴル勢の中で、そういう下品な態度を取らなかった。その部分が日本人の共感を得たのであろう。
 ワシャは琴奨菊があまり好きではない。それは琴奨菊の仕切りが綺麗ではないからね。あのイナバウアーのように反り返るのが好きではない。日馬富士の這いつくばるような仕切りも同様に嫌いだ。そこへいくと鶴竜のほうがクセはない。だから好感が持てる。遠藤が人気があるのも、クセがないし怪我をしてもテーピングをしない美学に徹しているからである。稀勢の里がブレイクしたのもそういうことなのだ。多くの相撲ファンが相撲に美学を求めているからに相違ない。日本人、外国人はあまり関係ないのだ。