年末恒例に出版される文藝春秋のオピニオン誌『2016年の論点100』を読んでいる。2013以降、ずいぶんと薄くなってきたが、それでも頑張ってほしい。
その中の「スポーツ」に新たな論客が現われた。能町みね子氏(エッセイスト、イラストレーター)である。相撲について《日本人横綱は「欲しい」が「必要」ではない》という論を展開している。言われることはもっともで、力士の大型化が進んできている現在、なかなか日本人力士の上位定着は難しくなっている。能町氏自身も「日本人横綱が欲しいかと問われれば、それは欲しい」と言いつつも、「日本人横綱は、いたほうが盛り上がるかもしれないが、いなくても人気が復活してしまったし、大相撲がこの状況のせいで崩壊しているわけでもない。結果として、必要ではない」と結論づけている。
そうだろうか。
能町氏によれば「日本人横綱必要論」を振りまわすのは、大相撲を大鵬時代から見てきた古参ファンに多いのだそうだが、とするならばワシャなんかモロに排外主義的で遅れた考え方をもっている「大古参」ということだな。それ認めた上でいくつか私見を挙げておきたい。
ワシャを含めて古参ファンは必ずしも「日本人以外の活躍は認めない」という狭量なものではない。モンゴル人でもアメリカ人でもそれ相応の実力があって品格があれば横綱を張ってもらえればいい。例えば第67代横綱の武蔵丸はアメリカ人だったがいい横綱だった。横綱にはなれなかったが、旭天鵬も爽やかな人物で、ワシャがもっとも力を入れて応援していた力士だった。古参ファンが必ずしも「日本人以外の活躍は認めない」ということではない。
それでも日本人の横綱が欲しいと思っている。前述した旭天鵬は関脇で終わったが、彼が横綱になってくれればこれに勝る喜びはなかった。しかし、性格が優しいのでなれなかったけれど。
でもね、もし旭天鵬が横綱になっていれば、彼は日本人の横綱になっていた。それは彼がモンゴル国籍を離脱し、日本に帰化して名実ともに日本人になっているからである。そういった意味から、外国人力士は日本人になれる。日本の伝統文化を百年も千年も継いでいくのだという気概さえあれば、国籍を日本にすることなどさしたることではあるまい。そういった意味からも、白鵬、日馬富士、鶴竜も日本人横綱になれる。日本人になるんだという決意をこめて、土俵上の品格を高めてもらいたい。間違っても、懸賞金をわしづかみしたままのガッツポーズをするバカにはなってほしくない。昨日、白鵬がやったばっかりだけど(蔑)。
大相撲は日本の伝統文化である。紙垂(しで)をさげる横綱は日本人でなければなれない、そのくらいの前提があってもいい。