落語の話

 夕べ定例の読書会。課題図書は、桂米朝『落語と私』(文春文庫)である。30年前に書かれた本で、当時、米朝さんは60歳だった。ご本人は「55くらいで寿命になるだろう」と思っていたふしがあって、その頃までは上方落語復活のために馬車馬のように走っていたのだが、60の声を聴いて、すこし落ち着いてきたこともあり、この本を上梓したのかもしれぬ。
 なにせ30年前の本で、その後、ここに書かれていることは上方・江戸の落語家たちの口を通じて広められているので、目新しい情報はなかった。それでも米朝の落語論を垣間見ることができる。「しぐさと視線」が重要な落語のファクターで、これを心得ておくと、なにもない高座という空間に家屋敷も初天神のにぎわいも浮かび上がってくる。
 高座には落語家一人っきりしかいないにも関わらず、『愛宕山』のオープニングは、愛宕詣りにゆく一団、京都室町あたりの旦那が、芸妓舞妓衆や幇間(たいこもち)を連れて野辺を行く。
祇園町から西へ道をとりまして、二条の城を尻目に、野辺へとさしかかってまいりましたが、なにしろ春さきのこと、空には、ひばりがさえずり、のには、かげろうがもえ、れんげや菜種の花があたり一面に咲きほこっております。そのなかを、にぎやかな連中がいくのですさかい、その道中の陽気なこと……」
 米朝が語ると、高座に、本当に春の野辺が広がって来るから不思議だ。これが落語の妙味と言っていい。
 落語はこれから面白くなってきますぞ。