バナナ

 最近、朝食にバナナを食べるようになった。一週間に5〜6本。整腸作用があると聞いたので、人体実験をしている。ワシャの人生の中で、これほど集中的にバナナを食ったことはない。それで判ったのが、バナナにもいろいろな味があるということである。皆さんにはすでにご承知のことかもしれないが、ワシャの中では、子供のころに培った「バナナは美味しいもの」という神話があった。だからバナナを口にしても「美味しい」という思いが先に立って、美味しいとしか感じない。
「そんなバナな!」と言うことなかれ。三つ子の魂百まで、なのである。子供の頃にそう思い込んだことは、簡単には払しょくできない。
 ここ1年くらいで食したバナナと、それ以前の人生で食べた本数はさほどの差はあるまい。そのくらい食べて人体実験をした。その結果、味の違いがようやくわかってきたのであ〜る。
 たとえば、今朝は「熟撰バナージュ」(フィリピン産)だった。昨日はというと「ボビーバナナ」(フィリピン産)である。味は「ボビー」のほうが少しまろやかだった。後味もすっきりしている。でもね、これは「ボビー」が4日経過しているのに比べ、「バナージュ」が買ってきたばかりだったというハンデもあった。なんといってもバナナは黄色い皮に茶色い斑点が出て、皮が熟れてきてからのほうが断然に美味い。それも一般的には常識なんでしょうね。でも、先入観の強いワシャは、最近気がついた。そうそう水木しげるさんなどは、「腐りかけたバナナが一番美味い」とじゅくじゅくのバナナを好んで食べられているそうな。

「バナナ」つながりで。一昨日にふれた司馬遼太郎の『風塵抄』の中に「バナナ」という名エッセイがある。書き出しを引く。
《日本じゅうが、政界の陋劣さに滅入っている。》
 このエッセイが平成4年10月に書かれているので、時の内閣は「宮澤喜一」を首班とした自民党政権であった。これを「陋劣」(ろうれつ)などという聞き慣れない言葉で断じる時の司馬さんは、間違いなく怒っている。そこをきっかけにして、司馬さんのバナナに関する7つのエピソードで構成され、それがうまく絡み合っている。
「東南アジアではバナナが貧民の食べ物であること」
「バナナがアラブ語のバナーン(手足の指)からきていること」
「日本では芭蕉という名であること」
「茎はラッキョウと同じで中身がないこと」
「仏典にも載っていること」
「戦国武将の旗指物のデザインとして好まれたこと」
「日本人が草や木の名を大切にしているということ」
 これを原稿用紙わずか3枚ちょっとに、パズルのように盛り込んで名エッセイに仕上げている。文末でふたたび政治の汚濁をなげき筆をおいている。

 この見事なエッセイで嘆いているのは、宮澤政権の時代である。そこらあたりについては明日にでも。