命の重さ

 アグネス・チャンが若いころ、公園にいる鳩を見て「おいしそー」と思ったという話はけっこう有名である。それは日本と香港の食文化の違いによるもなので、アグネス・チャンの素直な感想はそれでいい。日本人だって、南の島の磯に漂うナマコを見て「うまそー」って思ったりするので、大差ないわけだ。
 
 先日、友だちとある店のカウンターで飲んでいる時に、壁のモニターに皇帝ペンギンの雛の映像が移った。グレイの綿毛に包まれた雛は、とてもかわいい。ワシャだってもちろんそう思う。でもね、同時にワシャは地鶏の炙ったのとか、焼き鳥のヒヨコも嫌いではない。だから、アグネス・チャンの素直さで「ペンギンっておいしいんですかね」と聞いた。皇帝ペンギンが「軽度懸念種」にあり、食べられるものではないことはわかっている。しかし、鶏や鴨と同じ鳥類であり、別種のペンギンではあるが、かつては食用になっていたこともあるので、そんな疑問を持った。
友だちの反応は、「えええっ!」だった。「あんなにかわいいペンギンを見て食べたいと思うの?」と呆れられてしまったわい(苦笑)。

 このニュースである。和歌山県太地町のイルカ追い込み漁に対してケネディー駐日大使が懸念を表明した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140119-35042729-cnn-int
インディアンを開拓と称して殺戮し続けたアメリカ人に言われたくないわさ。ケネディーも親日を装ってはいるが、日本文化をきちんと理解しているかははなはだ疑問だ。
 命には違いがあるということなのである。牛や豚の命より、イルカの命のほうに価値があると白人どもは言っている。ネイティブアメリカンの命は安いが、白人の命には価値がある、そういう差別がその底流にある。
 イルカは頭がいい。人間とのコミュニケーションもできる。だから、声高に保護を求める。牛や豚はイルカに比べると劣等だ。だから、食用にする。そんな手前勝手な理屈が見え隠れする。

 藤子不二雄の作品の中に「ミノタウロスの皿」という異色SFがある。
 宇宙飛行士が遭難し、とある惑星に不時着する。そこで美少女と知り合い恋をするのだが、その星は人間と家畜の立場が逆転した世界だった。その世界で彼女は「ミノタウロスの皿」と呼ばれるもっとも高い栄誉を与えられる。そのことを彼女自身も家族も喜んでいる。そして支配者である牛たちも喝采を送る。しかしその栄誉とは……。
ネタバレになるのでそれ以上は言いませんが、ある価値観だけに染まってしまうと、皿に盛られることさえ誉れだと錯覚してしまうということなのである。言っちゃったか(笑)。
 地球上にはいろいろな文化がある。それはお互いに折り合っていかなければいけないのだと思う。日本人は、クジラも食えば、イルカも食う。牛も鶏も食している。しかし、命をいただくのだという意識で感謝して、唯一神にではなくその命そのものに感謝して食べる。食べたのち、その命を慰霊するために神社を建立したりもするのである。
 そういった深い文化的なところまで思いを馳せてからツイッターをしてもらいたいものだ。ケネディー大使には少し失望した。