三井の番頭

 昨日、久しぶりにBOOKOFF巡りがしたくなって旅に出た。旅のお供は司馬遼太郎の講演会のCDである。司馬さんの声を聴きながら運転をしていると、渋滞にもイライラしないからありがたい。
 どこを聴いていてもためになるのだが、その中でもとくに「経済感覚に優れた幕末の先覚者」のフレーズがおもしろかった。越後長岡藩の家老である河井継之助のエピソードを開陳される。小説『峠』では、前半の「備中松山」の章であろう。
 継之助が藩を建て直さなければならなかった。このための経済学を学ぶ必要がある。その師を求めて全国をくまなく歩いている。だが、なかなかこれぞという師に巡り会わない。ようよう10年目にして、備中松山岡山県)で山田方谷に出会った。方谷、備中松山藩を建て直した経済学者である。継之助が方谷の下にあること8カ月だった。わずかな期間で継之助は方谷から多くのことを学び身につけていく。
 継之助という男は駻馬である。これほど制御しにくい馬もあるまい。しかし、これほどの豪(えら)すぎる男が、方谷ばかりには尊崇の念を持った。「備中松山」の章の末尾を引く。
《方谷は門前で見送っていた。
 継之助は路上に土下座した。土下座し、高梁川の急流をへだてて師匠の小さな姿をふしおがんだ。この諸事、人を容易に尊敬することのない男が、いかに師匠とはいえ土下座したのは生涯で最初で最後であろう。》
 この場面で継之助が、方谷のことをこう評したと司馬さんは講演で語る。
「先生のような人なら三井の番頭が務まりますね」
 このことは『峠』には書かれていない。しかし、司馬さんは『峠』の調査をする段階で、この継之助の発言に当たったのであろう。
 江戸の末期とはいえ士農工商身分制度が存続している。封建社会の時代に、それも一国の家老が一国の藩政改革者に対し、「三井の番頭」という身分でいえば最下層の職を当てて褒めた。実際に藩政改革者に対しては間違いなく褒め言葉であろう。ここに司馬さんは、江戸期の米穀経済が破綻している証を見ている。

 そんな講演会を聴いていたら、渋滞に巻き込まれながらもストレスもなく岡崎のBOOKOFFについた。久しぶりだったので、何冊も購入しましたぞ。ワシャの場合、小説は少ない。多くを選書、新書、評論、エッセイなどが占める。昨日、買ったなかでおもしろそうなのは、『倉敷からはこう見える』(山陽新聞社)、大原美術館理事長の大原謙一郎氏の文化論、地方論のようなものである。梅棹忠夫さんの日本三都論もざっと見ただけだが内容が濃い。東京、京都、大阪の三都比較論――残念ながら名古屋は入っていない――が展開されている。
 そして、山本七平の『指導者の帝王学』(PHP)を買った。この本はそれほど重い本ではない(グラム数ではないですよ)。啓発本の一種である。扱われている帝王も、織田信長であったり上杉鷹山だったり、オーソドックスなラインナップだったが、最終章で「貞観政要」について触れてあったので、著者とこの部分だけでカゴに入れた。
 ところが自宅にもどって、あらためて中身を確認していると、三野村利左衛門の章があったので嬉しくなってしまった。
 戻りの車中で聴いていた司馬さんの言う「三井の番頭」というのが、三野村利左衛門その人だったからである。読書というか、勉強の醍醐味として、知識と知識がつながっていくことが楽しい。CDと本という違いはあるにしろ、知りえたことが交わっていく。だから読書は止められない。

 蛇足だが、上記の確認をするために、司馬遼太郎『峠』を再確認し、その中には「三井の番頭」の話は出てこなかった。そこで以前に長岡に行ったとき、町の古本屋で購入した『河井継之助』(新人物往来社)の中にこんな一文を見つけた。
《また継之助も方谷に推服し、かつて三島中洲に、「先生ほどでは越後屋の番頭が勤まる」と、その実務に明るいことに感嘆した。》
 越後屋とはの三越のことであり、越後屋三井財閥の基礎を築いたことは言うまでもない。