祝!ユネスコ登録

 藤原道長の『御堂関白記』がユネスコの記憶遺産に登録された。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201306/2013061900040&rel=y&g=soc
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と豪語した道長の日記である。この歌は『御堂関白記』の中に出てくるものではなく、道長と同時代の公卿である藤原実資(さねすけ)の記した『小右記』(しょうゆうき)にある。このことによりこの歌が有名になった。
 この歌を詠んだ日のことを、筆まめ道長は『御堂関白記』に書いている。寛仁2年10月16日、道長の娘の威子(たけこ)に立后宣命が下った。つまり三条天皇の皇后になることが決まったのだ。この日の道長のこまごまとした動きが日記に書かれいている。「関白がどうした。左大臣がこうした。右大臣がこうだった」といかにも細かい。その上に中宮が着された袴の色まで書き留めている。
「この世はオレのもんじゃい!」と言い放ったオッサンにしては、けっこうマメな性格だったようだ。

 それにしても千年の時を超えて、古代の権力者の直筆書簡が未だに残っているということがうれしい。ワシャの持っているのは『藤原道長御堂関白記」』(講談社学術文庫)の全現代語訳のものだが、それでも読んでいると、平安の京都を活き活きと動き回る道長に会うことができる。これはなかなか楽しい。

 一例を挙げる。
 寛弘7年(1010)6月20日の記載である。
《土御門門において春季読経を始めた。》
この日記にはあちこちに「読経した」との記載がある。当時は何かにつけて読経をしていたようだ。
《読経が終わって、公卿たちを率いて内裏に参った。》
 公卿団の先頭を道長が颯爽とゆく景色が見えるようではありませんか。
《施米の勘文を天皇に奏上した。十五巻であった。》
 この頃、勅命を奉じて6月に京都の貧窮な僧に米や塩を施していた。その施米に関する意見書を天皇に奏上した。そっくり返って酒呑んで、歌を詠んでばかりいたんじゃないんですね。その後、傷害事件の裁定をしたことも書かれている。
 それにこの月はずいぶんと雨が多かった。
6日「雷電が数声あった。雷鳴陣を立てた」とある。梅雨入りをしたようだ。
9日「昼間、時々、雨が降った。子剋以後、大雨であった」
10日「一日中、雨が降った。大雨だった」
16日「風雨が有った」
 日記を読んでいると、土御門第の縁から曇天を見上げている道長の憂鬱な顔までが想像できるからおもしろい。