奈良の良いわけ

 ようやく南大門にたどりつく。
 この門、建立は鎌倉時代の初期である。甍までの高さは二丈半(7.5m)ほどもあろうか。門の斗拱(ときょう)、挿肘木(さしひじき)、柱などに施された丹は薄くはなっているが、当時の面影を残している。「日本の歴史的建造物の中での最高傑作はこの南大門をおいて他にない」と言う人もいるくらいだ。
 さぁ、五段ほどある石段を登ろう。登りかけた時、少年の一団が、勢いよく駆け上がってきた。おいお〜い、そのまま敷居を飛び越えて通り過ぎていくんじゃない。横を見るべし。両側に、金剛力士像の阿形と吽形が門を守っているのだから……あああ、行っちゃった。
 おっと、金剛力士像だった。大仏殿にむかって右が吽形、口をつむっている力士のほうね。阿形が左側で口を「あ!」と開いている。作者は鎌倉の仏師の運慶チームと快慶のチーム。運慶のほうが吽形、うんうんつながりと覚えればいい。そうではないという説もあるけれどここでは触れない。
 さあ、仏像を鑑賞するとしよう。どちらでもいいので、最初は少し離れて見ていただきたい。そうすると上半身と下半身のバランスの悪さに気づかれると思う。下半身が小さいのだ。どちらかと言えば不恰好に見える。でもね、これがからくりで、その像に近づくにつれて、人間は小さいから像を見上げるようになる。足元に近づいて仰ぎ見る位置まで来るとこれが絶妙のバランスを醸し出す。さすが大仏師の運慶、快慶である。
 続いて足元を見てみよう。金剛力士の足である。踏みしめられた足の指には力がこもり、甲には血管が浮き出ている。鎌倉リアリズムの極致と言っていい。阿形はいつも思うのだが、ピーク時の千代富士のような肉体を持っている。こんな力士が門を守っているのである。これなら毘盧遮那仏も安心だろう。仁王像の裏側に石造りの獅子がいる。これも重要文化財なのだが、運慶、快慶の傑作を見た後では、大きく見劣りがする。美術展なら先に石造獅子を展示するところだが、そうもいきませんわなぁ。
 そろそろ先に進もう。石畳の参道の先には丹色の鮮やかな中門が見えている。その屋根越しに大仏殿の大屋根と金色に輝く鴟尾も見える。もうすぐ大仏様に逢える……。
 あわててはいけない。まだまだ毘盧遮那仏は遠いですぞ。まずは大仏殿南の中門を守る二天にお逢いしなければならない。多聞天持国天である。正確には多聞天は、四天王で4人のユニットを組むときは多聞天と名乗り、四人でない場合、中門のように持国天と二人で活動する時には兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)、あるいは毘沙門天と呼ぶことになっている。持国天はどういう編成でも持国天だけどね。
 まず毘沙門天である。顔はふくよかであり童顔だ。眼は大きく見開かれ吊り上ってはいるが、どちらかと言えばかわいい。右手に鉾を、左手に宝塔を捧げている。足元を見れば、邪鬼二匹を従え、邪鬼の間に地天女(じてんにょ)という女神が優しいお顔を出して両の手で毘沙門天を支えている。この地天女であるが、これは大地を神格化したものと言われている。
 反対側の持国天は、こちらのほうは、毘沙門天と比べるとやや恐ろしげな表情になっている。右手に太刀を握り、左手は鉾を持つ。足で三匹の邪鬼を踏みつけている。この二天は江戸期に造られた若い仏なのだが、それでもそんなに悪くない。『大和古寺巡歴』の著者の町田甲一は《名品の多い南都では、ほとんど人の注意をひかない凡庸の出来である。》としているが、ワシャはこの二天は初々しくて好きだ。物事を悟りきっていない血気盛んな若武者といった風情がなんともいえない。
 ここまで随分と時間を費やしている。なにしろ仏様お一人お一人とじっくり対峙してくるのだから時間が掛かるのはしようがない。それに建物にも見どころがある。幾つもの社寺仏閣を駆け足のように巡るツアーがあるが、あれは邪道だ。あれでは意味がない。じっくりと腰を落ち着けて回ることが肝要だと思う。
 仏像を鑑賞したいという人にワシャはこうお話しする。
「あまり欲張らないでください。仏様はずっと待っていてくれます。だからそれぞれの仏様としっかりと向き合ってください。一度ではなく何度でも逢いに行ってください。仏様は、行くたびごとに、その都度、表情を変えてあなたを迎えてくれますよ」

 うえ〜ん(泣)、まだ毘盧遮那仏まで辿り着けまへんがな。