顕官栄えて国滅ぶ

 今朝の朝日新聞のオピニオン欄に、元経済産業相官僚の古賀茂明さんの話が載っている。また、「文藝春秋」6月号には、ノンフィクション作家の柳田邦男さんの論が掲載されている。どちらもこの国の官僚制度の本質について語っており興味深い。
 古賀さんは言う。
《もともと経産省霞ヶ関では改革派だったんです。(中略)ところが、いつの間にやら役所全体が保守化してきた。骨のある改革派は辞め、あるいは転向していった。官僚は基本的に民間の手に任せるのが嫌なんです。既得権益を守るのが「霞が関のルール」ですから。》
 改革派だった古賀さんは、役所という組織から徹底的にいじめられる。仕事を干す、無視する、退職を迫る、誹謗中傷を流す……。ある意味、市民、国民の目から遠い霞が関だからこういったあからさまな排除の論理がいまだに通用しているのだろう。
 古賀さんは、霞が関四面楚歌の中、孤軍奮闘を続けるが、ついに昨年、自ら辞表を提出し経産省をあとにする。志半ばで断腸の思いだったろう。しかし、ことほど左様に官僚組織の壁は厚い。そういうことなのである。

 柳田さんは、福島原発の災禍をとおして官僚組織の本質を見つめている。原子力安全・保安院の意見書などを読み解いて、官僚には次のような共通項があると看破した。
① 制度や既往の取り組みを大きく変えることを嫌う。
② 財政負担が増えることを安易に拒否の理由にする。
③ 人手を食う新しい仕事を引き受けたがらない。
④ 批判や反対論が湧きあがるのを、社会的混乱の増大ととらえる。そうした状況になるのを避ける。
⑤ 住民の不安を増大するような新たな対応を嫌う。
これらを官僚たちは、「国民の命」より優先順位を上げて事業を進めていくのである。原発周辺の住民の安全など二の次なのだ。原発の危険性を発表することで、批判や反対論に巻き込まれたくない。エリートの立場を悪くすることを嫌う。要するに「官僚自身の保身」がなによりも大切なのである。
 平成18年、IAEA国際原子力機関)がより厳しい防災対策の新基準を打ち出したことをうけ、国際基準を重視する原子力安全委員会と、電力会社・経産省の強い影響下にある保安院との間で、新基準をどうするかで激しい議論の応酬があった。保安院は、「制度を大きく変えたくない。財政負担が増える。人手がいる。批判や反対論が噴出する」として新基準に真っ向から反対した。
 その時の、保安院長の広瀬研吉氏はこう言い切った。
「なぜ寝た子を起こすのか」
 はて、「寝た子」とは誰のことだろう。広瀬氏の孫のことだろうか……。
 もちろん違いますよね。「寝た子」とは、広瀬氏を始めとするエリートの皆様方にご教導いただいている無知蒙昧な愚かな国民のことですよね(笑)。
 柳田さんは、論をこう結ぶ。
《「寝た子を起こすな」という発想は、「由らしむべし、知らしむべからず」という徳川幕府の治世訓以来維持されてきたこの国の伝統的官僚文化を象徴するもので、それはまた今こそ転換すべき旧態依然たる思考の枠組みの中核をなすものと言えるだろう。》

「いやいや、官僚の中にもまともな人物がいる。全否定してはいけない」という声もある。しかし、実際に霞が関の旧態は変わらず、広瀬氏らエリート官僚の「事なかれ主義」によって、惨事は「なかれ」どころか増幅しているではないか。霞が関にまともな官僚がいるとしても、古賀さんが漕ぐん奮闘しているのを息を潜めて眺めていたとするならば、それは同じ穴のムジナでしかない。
 官僚主導での日本の立て直しは無理!これは誤りようのない事実として認識したほうがいい。