ある大官の死

「うつし世を神さりましし大君のみあとしたひて我はゆくなり」
 乃木大将の辞世の歌である。「この世を去っておしまいになった陛下をお慕い申し上げ私も彼岸にお供をさせていただきます」ほとんど思慕の歌といっていい。
 乃木は、この歌をしたためて、明治天皇の大葬の日、つまり明治45年9月13日、御霊柩が宮城を出る午後8時を待っていた。ふすまを外した八畳二間に軍服で正装をした乃木が端座している。部屋の東側には白布で覆われた小机があって、そこに先帝の写真と、榊、神酒徳利が一対供えられていた。葬送の号砲を聴いて、乃木は妻静子とともに自裁して果てるのである。後の禍根をすべて処理して。
 最期の描写を、司馬遼太郎『腹を切ること』から引く。
《希典は静子の姿をつくろい、そのあと軍服のボタンをはずし、腹をくつろげた。軍刀を抜き、刃の一部を紙で包み、逆に擬し、やがて左腹に突き立て、臍のやや上方を経て右にひきまわし、いったんその刃を抜き、第一創と交差するように十字に切り下げ、さらにそれを右上方へはねあげた。作法でいう十文字腹であった。》
 身辺の整理をし整然とした潔い死に様であったという。
 公的な立場にあった者の自裁はこうでなければならぬ。間違っても遁走するような卑怯な最期であってはいけない。