南セントレア市後日譚

 かつて愛知県は知多半島に出現しかけたこのおぞましい市名についてはけっこう書かせてもらった。関連記事は最後に載せたのでお暇なら見てよね〜♪
 それにしても「南セントレア」などというへんてこりんな名前にならなくてよかった。なんといっても「南セントレア」になりかけた美浜町には「野間大坊」という古刹がある。平治の乱平清盛に敗れた源義朝が再起を図るべく東国に落ちてゆく途中でこの野間の領主長田忠致(おさだただむね)の館を頼った。しかし、すでに長田父子は義朝の首を手土産にして清盛に寝返ることを決めており、あわれ義朝は長田の謀略にかかって敢え無い最期を遂げた。これはけっこう有名な話で、平治2年(1160)1月のことである。
 それから下ること17年、清盛の全盛の安元3年(1177)に事件は起こった。世にいう鹿ヶ谷(ししがたに)の謀議である。この謀議に連なって何人もの貴族があちこちに配流になっているのだが、その中でも飛びっきり遠国に吹っ飛ばされたのが、俊寛僧都(しゅんかんそうず)、平康頼(たいらのやすより)、藤原成経(ふじわらのなりつね)の3人だった。どこへ飛ばされたかというと、当時の日本国でも外れも外れ、薩摩国のそのまた南の絶海の孤島(鬼界ヶ島)に流されてしまった。この辺りのことは、能や歌舞伎の『俊寛』に詳しいのでそちらに譲ることとするが、この3人のうちの平康頼が野間大坊に縁があるのだ。
 康頼、1年後に許されて鬼界ヶ島から生還を果たす。戻ってきて康頼はさっそく無念の死を遂げた義朝のために野間大坊に供養搭を造営するのである。野間大坊には今もその供養搭が現存している。平治の乱、京都鹿ヶ谷の謀議、鹿児島鬼界ヶ島、そして知多郡野間という広範な地域に展開した古代の歴史が今も息づいているんですね。そんな由緒のある土地柄の上に「セントレア」などと言うすっとぼけた名前を付けなくて本当によかった。
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