不倫

 昨夜の読書会は盛り上がった。なにせ課題図書が中野信子『不倫』(文春新書)だったからね(笑)。メンバーの一人が、「不倫」から「ナンパ」に話を展開し、学生時代の「ナンパ」の技術が現在の仕事にも役に立っているという話に発展した時には、大爆笑だった。とはいっても本書は、下世話な「不倫」を取り扱ったものではない。もちろん取っ掛かりは下世話な「不倫」から入っているのだが、そのあたりをきっちりと統計的な数値で説明し、「家父長制度」、「結婚制度」、「一夫一婦制」などの疑問点について解りやすく彼女なりの解説している。また、「オキシトシン」、「セロトニン」、「テストステロン」、「パソプレシン」などの脳内物質の役割などにも言及し、半ば化学のテキストのようである。あまり読書の得意でないメンバーにはこのあたりが手強かったようだった。

 中野さんは、こういった高度な科学的知見や歴史的な背景も含め、現在のマスコミの「不倫バッシング」に疑問を呈している。不倫が暴露されたタレントや国会議員などの職を奪うまで国民総出で叩き続ける日本人の同調圧力の強さを危ぶむ。明治期に原理主義キリスト教の男女観が輸入されて以降、大らかだった日本の「性」が大きく変貌をしていく。日本人の特性としていったん採り入れたものは、国民全体としての意志として醸成し、そうでない者に対しては「サンクション」(制裁)を行使する。この空気が蔓延することに「生殖のコストが高すぎる」と、中野さんは憂いている。「このままでは日本人は生殖しなくなる」という項をつくっているほどなのだ。

 電車の中でブックカバーを付けずに『不倫』という表紙を丸出しにして読むには少々度胸がいるが、内容はかなり密度の濃いサイエンス本である。ぜひ、ご一読をお薦めしたい。

 

 昨日の手抜き分、こちらのニュースにも触れておく。

天守木造化延期 河村市政を問う声》

https://www.asahi.com/articles/ASM6S4RHGM6SOIPE01G.html

名古屋城天守木造化の「2022年末完成」が延期される方向になったことに、大きな波紋が広がっている。木造化の関連予算が提案されている名古屋市議会では24日、各会派の議員から厳しい追及が相次いだ。河村たかし名古屋市長の「盟友」だった愛知県の大村秀章知事もこの日、河村氏の市政運営を強く批判した。》

 ワシャは、名古屋城が木造で復活し、今、ドテッパラに無様にくっつけられているエレベータを排除できるのなら、それはそれでいいと思っていた。しかし、土台となっている歴史的価値のある石垣を損傷するのなら話は別である。2022年という期間を区切って「そこまでに造らにゃいかんでよ~」と天守建造を急ぐためには、他のことは捨ておけばいい……ではダメなのだ。いくら精密に再現してもレプリカはレプリカでしかない。しかし、石垣は本物なのである。どちらを優先すべきかは簡単な選択だよね。これをどうしても「己の手柄」にしたいみゃーみゃー市長は拙速に奔るわけである。

 ここに出べその大村チンさんが出てきた。他所の自治体のトップが、名古屋市の事業について25分にもわたって批判をするかえ?

 まぁそのおかげで、久し振りに凸凹コンビが朝日新聞の紙面を飾った。ご両所とも、ビートたけしの番組でお笑いをやっていたころとあまりお変わりなく、おめでたいことで。

 

 

 

 

 

コミュニケーション能力

 昨日の中日新聞に「コミュニケーション能力の向上について学ぶ講座」記事が載っていた。そこで講師は「コミュニケーションツールとしての新聞」について語ったそうな。「興味を持ってもらう話題を探すにはとても有効な道具」という手前味噌な発言が恥ずかしい。

 ワシャは割と人との面と向かってのコミュニケーションは得意としている。よほど、新聞の記事で話題をもっていったことはない。むしろ、朝日新聞などはウソが多いので、話題に出すのは控えなければならないと思っている。それに紙の新聞は、タイムリーではなく、情報の早さということで言えば、ネットに軍配を上げざるをえない。

 そういったことを前提として、やはりコミュニケーション能力の向上のためには、読書に勝るものはないと思っている。話題についての深さ、広さをその人が持っているか、そしてそれをひけらかさない気品を備えていることが重要であろう。

 

 座談の名手といわれた司馬遼太郎さんは、出会った人々のほとんどが司馬ファンになってしまうほど、心憎いまでのコミュニケーション能力を備えていた。

 司馬さんの支那旅行に初めて同行した高峰秀子はこう書き残している。

《あっというまに旅は終わり、一行は香港で解散した。別れは寂しい。ことに司馬先生御夫妻とはこれっきりお目にかかる機会がないにちがいない……。けれど、そういう私たちの心を見ぬくかのように、司馬先生が例のやわらかい口調でこうのたもうたのである。「旅には終わりがありますなァ。でも、あなたがたとは、これが旅のはじまりだっていう気がするんだ」》

 これを言われて、さしもの高峰秀子もまいってしまった。この時から、司馬遼太郎の親衛隊になったのだそうな(笑)。もちろん、司馬さんは誰にでもこんなセリフは言わない。高峰秀子の深い教養や人間力をみてとった上でのコミュニケーションであったに違いない。

 おそらく司馬さんは、その人生で「今朝の新聞にこんなことが書いてありましたなァ」などといった話柄の切り出し方をしたことはなかったであろう。

 その点、ワシャの日記は「今朝の新聞」「昨日の新聞」的な話題が多い。お恥ずかしい限りだが、しかし、面と向かってではないのでご容赦くだされ。

 

 コミュニケーション能力の陳腐な人もいる。名古屋の河村みゃーみゃー市長である。

 先日、藤田嗣治の作品2点が名古屋市に寄贈された。当然のことながら寄贈者はスーツにネクタイ姿でその場に臨んでいる。これに対するみゃーみゃー市長は、相変わらずの派手な絞りのシャツ(茶色)のみで、その服装には、寄贈者に対する感謝の念も、藤田嗣治への尊敬の念も感じられなかった。文化庁には忖度した格好(スーツにネクタイ、白いワイシャツ)で出かけるのにね。

 

 司馬さんのコミュニケーション能力の高さについてはこちらにも。

阿川弘之と司馬遼太郎 - 遼東の豕

 

 

 

 

掃き溜めに鶴

 褐色の肌をもつ日本の若者が快挙を成し遂げた。

《八村塁、ベナンと日本に誇り…両親、家族に感謝 NBAドラフト1巡目指名》

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190621-00000292-sph-spo

 うれしいじゃないか。かれのジャケットのヒダリ襟には日本国旗のピンバッチが輝いていた。かれは日本国旗に誇りを持ってくれている。日本国旗を足蹴にするクソサヨクどもに、彼の爪の垢を煎じて飲ませたい。

 

 クソサヨクといえば、どこぞの紅い党の党首は「天皇を過度に礼賛する状況は国民主権の原則を弱め、権力者にとって都合がいい」と言っている。この党首、日本が「権威」と「権力」を分けて国の統治をしてきたことをご存じないらしい。お仲間の、朝鮮労働党中国共産党は、一人の人間を過度に礼讃し、それこそ国中に巨大な肖像画を建てまつっているよね。

 

 反日のお仲間といえば、一国の総理に対して極めて蔑視的視線を投げかけた女子アナがいた。名前を伏せることもないので「小川彩佳」アナと言っておくけれども、まぁ報道ステーションのアシスタントだったから、ディレクターあたりに「安倍首相に厳しい視線を……」とかの注文が出ていたのかもしれない。しかし、演技力がないので、ああいったとんでもない表情しか作れなかったのだろう。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm33886567

 それが、今、「NEWS23」でメインキャスターを務めているが、もともと目に特徴のある顔だし、なにしろ首相への「睨目」の印象が強過ぎて、笑っても目ばかりが浮かび上がってきてしまう。それほど思想的なバックボーンもなさそうなのだが、典型的なデュープスと言っていい。

 

 デュープスのお仲間といえば、田嶋陽子女史である。深い考えもなく「話し合えば解りあえるのよ~」と叫んで止まない。彼女は、参議院議員を三日坊主で辞めてしまったわけだが、「そこまで言って委員会NP」なんかの肩書は「元参議院議員」である。元衆議院議員若狭勝氏などは、すでに肩書を「弁護士」にしており、弁護士として一人前に活動している。

 ところが田嶋女史、すがる肩書は反吐が出るほど嫌で辞めた「元参議院議員」しかない。ほかに「歌手」とか「書家」というのもあるらしいけど、この人、何をしたくて生きているのかがまったく解りません。

 

 アホといえば、名古屋市長の河村みゃーみゃー氏。名古屋城の問題で、東京の文化庁を訪問した時のスタイルが笑える。ダークスーツ、白いカッタ―シャツにネクタイを締めている。おいおい、東京の霞が関だろうとさ、あんたがいつも来ているTPOを度外視したへんてこなセンスのシャツを着ていけばいいじゃん。シャツはいいんですよ。いろいろな柄のものがあっていいし、人それぞれの趣味もあるからとやかくは言わないが、市民に対するとき、マスコミに対するとき、議会に対するときに、あのセンスはないだろう。それでもね、文化庁に行くときにも、そのセンスを貫くならまだ許せるが、それをあっさり普通の格好に戻すなら、普段から普通の格好で過ごせということ。

 筋の通っていない人物は、底が浅い。

遊びをせんとや生れけむ

梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)巻第二、四句神歌(しくのかみうた)雑(ざふ)の一首の冒頭である。『梁塵秘抄』というと、まずこの歌と言ってもいい。

 

「遊びをせんとや生(うま)れけむ 戯(たはぶ)れせんとや生(むま)れけん 遊ぶ子供の声(こゑ)きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」

 

 ワシャは忙しくなると、この歌を思い出すのじゃ。今、「遊びてぇなぁ」と思っているんですね。遊びといってもそんな大したことではない。東銀座の歌舞伎座に行ったり、上野で美術館を覗いたり、浅草でどぜうを食ったり、その程度のことである。寺社を巡り、落語を聴き、たまに友だちに誘われてクラシックコンサートに顔を出すくらい。どれも趣味と言えるほどのものではなく、「遊び」の範疇を出るものではない。

 だからこの歌がちょうどいいんだ。解釈はいろいろあろうが、執務をしていて、外から聞こえてくる子供たちの歓声に「麻呂も遊びたいでおじゃる」とか思ってんじゃないの。

 ゴルフはしないし、ギャンブルも卒業した。スポーツ観戦にも熱中しなかった。海外旅行は、そもそも飛行機嫌いだし、高級車など乗り回したくもない。贅沢なことは望まないのだ。龍安寺の縁側で石庭を見ながらぼんやりとしていたい。その程度のことなんだが、言う人に言わせると、「今の仕事だって、お前の遊びの延長にあるんじゃないのか?」ということになるらしい。じゃぁワシャはずっと「遊び」の中に居続けているようなものか。

 

 朝から書庫で『梁塵秘抄』(小学館)を繰っているのも遊びの一環なのだが、読んでいてこんな歌を見つけた。

 

「そよ、君が代は 千代に一度ゐる塵の 白雲かかる 山となるまで」

 

 これは「国歌」の「君が代」と同想の歌であろう。解説に依れば「だたし、小石の巌への生成よりも、この歌の塵から山への変貌のほうが大がかりで、さらに千年に一度の堆積という条件が誇張を強めている」のだそうな。

 左翼が「君が代天皇の世が長く続く歌だから不快だ!」と絶叫しているが、まだまだ「国歌君が代」はスケールが小さいんですね。この歌は「千年に一度の塵が積もって山になる」というのだから(笑)。

 あ~朝から遊んで楽しかった。さて、そろそろ仕事に行かなければ……。

 

 

うつせみに結ぶ

 最近、『夏目友人帳』の劇場版最新作のDVDが出た。もちろんニャンコ先生に私淑するものとしては、ちゃんと見ておかなければニャンコ先生に失礼にあたるからね。今日のタイトルはその題である。

 

 物語のテーマは「人と人、あるいは人と妖(あやかし)との出会い、交流、別離とは何ぞや」というもの。主人公の夏目貴志の祖母のレイコのささやかな出会いから始まって、貴志と老女、レイコと若かりし頃の老女、老女とその息子、貴志とその息子などなど、いろいろな人やモノとの邂逅、心の通い合い、そして別れが、静かに紡がれていく。『夏目友人帳』のコアなファンからは、あまり評価は高くなかったようだが、ワシャ的には、かなり琴線を刺激されるいい作品だと感じた。

 題がいいよね。「うつせみに結ぶ」。これがいろいろなエピソードに関わってくる。「うつせみ」は「空蝉」であり「セミのぬけがら」でもある。「虚ろ」、あるいは「現身(うつしみ)」または「写し身」だったりする。

 所詮、人生なんて、一時の夢であり、虚仮である。妖は人より長く生きるとはいえ、それでも有限の時間の中を生きている。

 人の短い一生でも、多種多様な喜びや悲しみが充満している。いわんや長命の妖においてをや。

 この作品、「うつせみに結ぶ」は、生きることの儚さと、はかないからこそ、その輝きが強く印象に残るんだということを描いたいい作品となっている。

 とくに、ワシャの好きなニャンコ先生が3匹も出てくるんだから応えられまへん。

 結局、そこが良かったんで評価が高かったのかも(笑)。

夜と霧

《香港行政長官、「逃亡犯条例」めぐる混乱で「心の底から謝罪」》

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6327169

 記事を一部引用する。

《香港では林鄭長官率いる親中派政権に対し、過去最大規模の抗議デモが繰り広げられた。同長官はこの事態を受け、記者会見で「私個人が責任の大半を負わなければならない。今回の件は社会における論争、争議、不安を招いてしまった」と認め、「このため、私は香港の全ての人々に心の底から謝罪する」と述べた。》

 支那中国の傀儡の行政長官が「逃亡犯条例」改正案の成立を断念する記者会見をした。行政長官、涙ぐんでいたそうだから、かなり習近平に叱られたのかニャ?

 朝日新聞は、《習指導部 大きな挫折》とでかい見出しを打ったが、そんなことよりも中国共産党の香港での暗躍が心配だ。

 作家の百田尚樹さんも、ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』を挙げて、ナチス党が反対派排除のために秘密警察を使って、夜の闇と霧にまぎれて暗殺、拉致、監禁等を行ったことを紹介し、懸念を示す。

 21世紀のナチス党と言われている中国共産党である。ワシャは中共のほうがナチスよりも狡猾だと思っている。もうすでに香港に工作員を続々と送り込んでいるかもしれない。あるいは共産党員に指示を出して、会社の出勤簿や学校の出席簿などを確認し、デモの映像を解析して、デモ参加者の特定を急いでいる。そして闇や霧を利用してデモのリーダーたちを闇から霧に葬り去っていく……かも。

 自由と民主主義を標榜する国際社会は、闇でも霧でも、しっかりと目を凝らして、一党独裁の暴挙を許してはいけない。

『夜と霧』の訳者あとがきから引く。《これは、夜陰に乗じ、霧にまぎれて人びとがいずこともなく連れ去られ、消え去った歴史的事実を表現する言い回しだ。しかし、フランクルの思いとはうらはらに、夜と霧はいまだに過去のものではない。》