言葉の診察室

 昨日、封建主義者で評論家の呉智英さんの講演会が開催された。ご本人は「もうすぐ77歳なのでこの講義を最終としたい」というようなことを言われていた。会場から「78歳ですよ」とヤジが飛んで、「そうだった」と照れながら訂正し、会場を笑わせていた。

 ご年齢はともかく、切れ味のいいお話は相変わらず。会場に詰め掛けた100人は、会場は呉さんの発言に聴き入り、ホワイトボードに何が書かれるか固唾を呑んで見守った。

 テーマは「言葉の始まり、言葉の広がり」。今回、4冊を出版された中の2巻目『ロゴスの名はロゴス』の「はじめに」にも書かれておられるが、《私が徒労感と絶望感を覚えるのは、言論界で言葉を操る人たちの論理の欠落ぶりに対してである。それはまた彼らの文化や国際関係についての無知不見識にもつながっている。》ということを冒頭で触れ、そこを主軸にして「新約聖書」の話に入っていかれる。

 ワシャのような不出来な弟子にとっては、「ひええええ」てなもんですわ。呉さんの「聖書講座」を受講しているが、ペロッと舐めたくらいで、しっかりとは読み込んでいない。「ヨハネによる福音書」とか「マタイによる福音書」などと言われましても・・・。

 でもね、話はとても解りやすかった。マリアが「受胎告知」を天使から受ける絵を示され、「絵では天使が見えているが、マリアは声を聴いているだけで見えていない」と指摘される。

 マリアはロゴス(神の言葉)を耳で受信したことで「受肉」し、イエスを懐妊する。呉さんはこの「受胎告知」を「マリアの幻聴だった」と言われる。会場はどっと盛り上がり、ツカミはオッケーだった。このあたりから幻聴を伴う病気の「精神分裂病」を「総合失調症」に言い換えてきた話を展開し、「人権派」とか「弱者派」に抗議により、言葉を「婉曲表現」するようになったことで、日本語がどんどん解らなくなってきたと指摘される。このあたりが『ロゴスの名はロゴス』の話につながっていく。

 あるいは、受胎告知をした「エンジェル」は「エバンジェル」であり、英語にすると「メッセンジャー」となる。「エバンゲリオン」も「福音」という意味のギリシャ語。

 講義はそこから「耳無し芳一」の話に移っていく。資料には小林正樹監督『怪談』の映像写真が3枚載せてある。耳無し芳一(中村嘉葎雄)の耳以外の顔面や首筋、身体にびっしりと経が書き込まれている写真だった。

 ここでも「耳」=「聴覚」に関しての話題が広がって、おもしろかった。映像(写真)で視覚から見ると、耳だけきれいに残っているのが判ってしまう。「こんなの簡単に気づくじゃん」と映画館でこの作品を観た呉青年は笑ったそうである。

 しかし、琵琶法師が音として語ると、耳からその情報が伝わってきて、耳だけ書き残すという矛盾を問題なく理解できるのだそうな。なるほど~。

 現代人は、映像として絵として視覚から入ってくる情報にまみれているけれど、もう一度耳から聞く言語情報、文字として読む情報にデリケートになったほうがいいと呉さんは警告している。

 この「耳無し芳一」の話題のところで、柳田国男の文章を引いて説明をされた。そこでもちゃんと、柳田国男の間違いを指摘し、『資本論』の「ドイツ語譯に對するエンゲルスの序文」では、訳の間違いを見つけている。

 まだまだあるんだけどちょいと長くなっていますんで、また次の機会に譲りたいと思います。「明日のココロだ~」と書くと、明日書けるかどうかが心配なので「預かりのココロだ~」にしておきます。「明日(仮)のココロだ~」。