層状の蔵書

 読書会で隣町に行った折に、駅前の書店に立ち寄って新書を一冊購入した。岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書)である。
 8月21日の日記で、増え続ける蔵書の悩みを吐露したばかりだったので
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130821
グッドタイミングだった。
 岡崎さんは言う。
《いくら本が多くても、本棚におさまっているかぎりは、いつでも検索可能な、頼もしい“知的助っ人”となる。それが本棚からはみ出し、床や階段に積み重なり始めたとたんに、融通のきかない“邪魔者”になっていく。》
 ううむ、今ワシャの状態だな。
 岡崎さんはさらに続ける。
《やがて抑えがきかなくなると、反乱は“災害”の域まで達する。》
 なるほど。本が増殖するということは“災害”だったのだ。岡崎さん、蔵書の増加を「大惨事」とも呼ぶ。哲学者の串田孫一や作家の井上ひさしなど多数の事例を挙げて解説をする。ドアが開かなくなる。床がへこむ。継目に隙間ができる。家がギシギシと鳴る。そして最終的に床がぬける。地震をふくめて、蔵書の崩壊は命の危険すらあるのだ。恐ろしいこっちゃ。
 岡崎さんは警告する。
《同じ本を、買ったことを忘れて二度買うようになると、そろそろ理想的な読書空間も危なくなってきたのである。》
 確かに、最近、本がかぶることが多くなっている。先日の古本屋巡りでも、寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫)、澤田昭夫『論文のレトリック』(講談社学術文庫)、『蕪村俳句集』(岩波文庫)を二度買いしてしまった。100円コーナーにあったので「もしかしたらかぶるかも」と思いつつ購入したので、それほどショックはないけれど、もったいないことをしたわい。ワシャが持っていても仕方がないので、友だちのパセリ君にあげることにしようっと。
岡崎さん、「明窓浄机」と言われる。これは、何もないところに本が1冊あって、それを読むことが本を読む人の理想とする、そういう考え方である。
 清掃の行き届いた部屋の気持ちのいい窓辺に、清らかな机があって、その上に一冊の本が置いてある。それを手に取って、蜩の声を聴きながら読書をする、素敵でしょうなぁ。
 残念ながらワシャの書斎(物置ともいう)には、机が3つあって、それがワシャを囲むように配置されている。このところ仕事に忙しく掃除をする時間がなかったので、少し埃っぽい。机の上にも――今、数えたのだが――161冊の本が乗っていた。こりゃどうみても明窓浄机ではないですな。
 それから岡崎さんは「段ボールに溜めておくと、本は死蔵する。背表紙は可視化させておくべし」と言う。
 そう言われてみると、段ボールに入れてしまった本の検索はかなり難しい。昭和30年代からの雑誌など50箱くらいが本当の物置で死蔵になっている。これはなんとかしないと蔵書としての意味をなさないのだが、なにしろ現状ではどうしようもない。洗面所、トイレ、寝室まで本が侵入しているのである。こうなってくると本のためだけに増築ということもありうるなぁ。
 実際に本のために家を新築した人の事例も、当該新書の中で紹介している。作家とかライターとかいうわけでもなく、普通の人の書庫なのだが、その写真を見て、なぜかシンパシーを感じてしまった。大地震で本に埋もれるのはワシャだけではなさそうだ。
 それにしても、増え続ける本に対して抜本的な対策が必要になってきたわい。やれやれ。