碁がたき

 ちょっと長いけれどお付き合いくだされ。

(昌念寺に、妙な居候がいる)
 と妻からきいたのは、きのうである。そのとき堀田半左衛門は、
「寺だ、いるだろう」
 ぐらい答えて、気にもとめなかった。堀田半左衛門は但馬出石藩の槍術師範役で、五十石。家中では人柄で通っている。但馬出石というのは仙石家三万二千石の城下で戸数はざっと千戸。
 市中に出石川が流れ、川の両側に町家、農家が入りまじりながらちまちまとかたまり、あとは城と、但馬ぶりの無愛想な山々があるだけの街である。昌念寺は町の東北にある。
 その後、数日して堀田半左衛門は昌念寺に出かけた。住持が碁がたきだからである。
 方丈に通されると、いままで住持とひそひそ声で話していた町人体につくった男が立ち上がり、やがて会釈もせずに退室してしまった。
「ご住職。あの仁は」
 と堀田は石を一つ置いた。

 司馬遼太郎の短編「逃げの小五郎」の冒頭である。書き写していて思うのは、「やっぱ司馬さんは巧いなぁ」ということであった。妻の囁きから入る。まるで読者までその噂話を立ち聞きしているようで、ついつい物語に巻き込まれていく。
「昌念寺さんに、妙な居候がいるのよ」
 妙な居候と言われれば、こっちだって気になる。なのに誰とも答えずに、気にさせたままで、但馬出石の説明なんかをさらりと入れてくる。そして昌念寺のシーンになる。
 主人公である堀田半左衛門の碁がたきが寺の和尚である。そこで桂小五郎とすれ違う。その部分を少しシナリオ風にしてみる。

○方丈(外)
 陽のあたった廊下を小僧に先導されてやってくる半左衛門。
○方丈(中)
 和尚と三十がらみの男が陽のささぬ奥でひそひそと話している。
小僧「和尚様、堀田さまをお連れいたしました」
 はっとする和尚。若い男に目配せをして、
和尚「そうかそうか」
 と立ち上がって、小僧の後ろにいる堀田に会釈をする。
和尚「(笑顔をつくり)このところ顔を出されないので、先回の勝負がよほど悔しかったのだろうと思うておりましたぞ」
 和尚が堀田を誘っている背後を、男がするりと抜けて、座敷から出ていった。堀田、その男を目で追うが、碁盤を用意する和尚が「ささ」と急かすので、どかりと座って黒い石を取った。堀田、まだ男の去った方向を見ている。
堀田「住職。あの仁は」
 堀田、黒石を碁盤の右上隅にピシリと打った。

 この後、堀田は城崎温泉で小五郎と再会し、やはり碁を打っている。堀田は小五郎の碁をこう評している。
《男の碁は理詰めで、慎重すぎた。これほどくそ面白くない碁打ちは、堀田にとってはじめてであった。》
 といいながら、後も堀田は小五郎のいい碁がたきになっている。堀田は幕府に遠慮しながらも義侠により、小五郎の逃亡を手伝う。

 文庫で36ページほどの短編である。維新の立役者である桂小五郎を、堀田という侍の目から描いた佳作である。その中で人物描写の小道具として碁をうまく使っている。司馬作品の中でもこれだけ碁の描写が出てくるものを他に知らない。
 短編「逃げの小五郎」、碁の名人戦のようにいろいろな局面に展開する。その場面場面に布石が打ってあって小品と言えどあなどれない。些細なことであるが出石での小五郎身の回りの世話をした女はおスミという。おそらくは「隅」ではなかっらろうか。
 京を天元とすれば出石は……。