冬の怪談

 北国のとある陸軍連隊屯営地の話である。屯営地には営門がある。いわゆる正面ゲートと思ってもらえばいい。そこには昼夜必ず衛兵が立つ。日中はまだしも夜間の衛兵は大変だった。それも1月、2月ともなると凍えるような寒さであったろう。
 ある深夜のこと、衛兵がいつものように営門を守っていると、遠くから「ザッザッザッザッザッザッザッザッ……」と行軍の足音が伝わってきたという。衛兵は考えた。
「こんな夜中に行軍訓練をやるだろうか」
 軍隊は夜間訓練をする。自衛隊だって深夜から早朝にかけての行軍訓練を頻繁にやっているくらいだからね。しかし小さな連隊である。部隊が動けばわからないはずがない。その上に衛兵である自分にそのことを連絡しておかないわけはないのだ。
 足音はするのだが姿が見えない、そんな怪奇現象が幾晩か続いた。その報告を受けた連隊長が、ある夜、衛兵詰所にやってきて亡霊の行進を待った。
 明け方近くになって山のほうから屯営地にむかって足音が近づいて来るのを衛兵が確認して、連隊長に告げた。連隊長は、衛兵詰所から外に出て近づいて来る足音に、大声で怒鳴った。
「雪中行軍の亡霊たちよ、よく聞け、お前たちの死は無駄ではなかった。お前たちの死によって、厳寒期の軍装は大改革されることになったぞ。お前たちは戦死者と同等に扱われ、靖国神社に合祀されることになった!」
 そして連隊長は軍刀を抜いて号令をかけた。
「青森歩兵第五連隊雪中行軍隊、廻れ右前へ進め!」
 連隊に近づいてきた足音は、その号令を聞いて、山の方向に遠ざかっていったという。
 この話は新田次郎の「取材ノート」にあった。少し怖いけれど、悲しい怪談である。

 明治35年1月23日、青森に駐屯する歩兵第五連隊第二大隊の将校以下210名は、青森市を発して3日間の予定で八甲田山の北の裾野を雪中行軍し帰ってくる予定だったが……。
 今でいえば爆弾低気圧とでもいうのだろうか、類を見ない悪天候に阻まれて、それこそ雪山のピクニック程度に考えていた行軍が、まさに地獄の行軍となってしまった。この行軍の死者199人、死亡率95%で、これは全滅である。
 日本軍の病理ともいえる出世しか考えぬ間抜けな指導部の萌芽がこのあたりからも見て取れる。

 この地獄から生還した11名の兵士がいた。かれらは冬山の怖さに熟知していた。だから無知な上司の言うことを鵜呑みにせず、自らの経験で防寒の準備をして八甲田に臨んだのである。
 秩序を維持するために組織というものは必要なものである。しかし、必ずしも組織内の序列が有能無能を決めるものではない。猛吹雪の八甲田山中で「前進!」と命令を下す大隊長と、「いや、これは進んではなんねぇ、この風は尋常ではない、ここで露営したほうがよかんべぇ」と言う地元でマタギをしていた伍長のどちらの判断が正しいだろう。
 太平洋戦争では、八甲田山の教訓がまったく活かされなかった。聞く耳を持たない上官が、若く有能な下士官以下の命を消耗していったのである。