三河は田原の人、渡辺崋山は天保12年10月11日(太陽暦では今日)、蟄居していた田原で幕府の命により自刃した。おそらく崋山の蟄居していた頃は蔵王山の紅葉が見事だったに違いない。
崋山が罪に問われたのは「蛮社の獄」という変事による。ガキの頃は「天保の改革」というとなにかいいことのような気になっていた。しかし、長じて歴史を読み込んでいくと、それが、水野忠邦という時代遅れの徳川官僚による綱紀粛正、質素倹約、重農主義などをお題目に並べた小手先の改革だったということが見えてくる。
猟官運動の大好きだった忠邦の下に鳥居耀蔵という有能な官吏がつく。ゲシュタポの長官にはうってつけの勤勉で陰険な男が、忠邦の政敵や体制批判派の排除に乗り出す。天保の改革、開明的な人間にとっては、今の支那のような状況だった。
忠邦は鳥居を使って諸事を逐一報告させた。水野忠邦のように何でもかんでも自分が知っていなければ気に入らないという狭量なサブリーダーが登場すると、組織が薄暗くなるというのは、いつの時代も変わりません(笑)。
手元に渡辺崋山の写生帖がある。主に魚介を写したものであるが、鯖なんか見事な出来栄えだ。写真か?と思わせるほど写実的で、刺身にして食いたいほどの新鮮さを湛えている。崋山の画力、いかばかりであろうか。
水野忠邦は猟官にしか興味がなかった。人を陥れることばかりに奔走した鳥居耀蔵は、それでも漢学の素養はあったようである。まぁ両者とも狭量な忠誠心をもつ徳川官僚というところでは一致し、この手のタイプが飲んでいても一番面白くない典型だと思う。なんだか仕事の話ばかりになりそうじゃないですか(笑)。
その点、三河の人渡辺崋山は、上記の2人よりも地位ははるかに低いが、視野は比べものにならないほど広く、日本のことを考える賢人であった。鳥居の讒訴により揚屋(武士の牢屋)入りとなり、その後切腹をするわけだが、崋山のことであるから、従容として死に就いたことは間違いない。崋山の座談は知的好奇心が広い分だけ、面白かろうと思いますぞ。
今日に因んだ話をもう一つ。
1月の名古屋宝生流の定式能の番組が「鉢木」(はちのき)である。聞いたことがありませんか?こんな話でござる。
佐野(現在の栃木県佐野市)の貧しい武士の家に、ある雪の夜、旅の僧が一夜の宿を乞うのだった。武士は粟飯を炊き、暖をとる薪がないからといって大事にしていた鉢植えの木を切って焚き、精一杯のもてなしをする。武士は僧を相手に、一族の横領により、今は落ちぶれているが、一旦事あらば痩せ馬に鞭打って鎌倉に駆け付け命懸けで戦う所存であると語る。
歳月は流れ、その後鎌倉から召集があった。その武士も鎌倉に駆け付けるが、そこで前執権・北条時頼があの時の僧だったことを知る。時頼は鉢の木のもてなしに報いるために、梅田、松枝、桜井の三荘を与えたのだった。「どこかで誰かが見ていてくれる」の鎌倉バージョンと言っていい。
これは北条時頼の廻国伝説の一つなのだが、この伝説前史が今日にまつわる。康元元年(1256)11月23日、北条時頼、蘭渓道隆を戒師として鎌倉最明寺で出家する、と「吾妻鏡」にある。出家の後、諸国を漫遊し、雪の夜、佐野にたどり着いたということなのだろう。