竹原市長と民主主義 その2

(上から続く)
 阿久根市は人口2万3000人ほどの小さな自治体である。市長もコミュニティのメンバーなら議員も職員も同様に地域の仲間である。いくら市長が反対派の議員が嫌いだといっても、市長が議会を解散し、また市民に選ばれて議員となった人たちなのだ。その人たちをないがしろにするということは「市民至上主義」に反していないか。
 竹原市長自身も市民から選ばれている。8449対7887の僅差で再選された。当選したからといって、すべて市長の言うことに従わなければならないということではない。8449人の市民が市長に賛意を示しているけれど、7887人の市民は「NO」を突きつけている。これを踏みにじってはだめですよね。民主主義の根幹は多数決で黒白をつけるのではなく、意見の違うものが真摯に議論を尽くして結論を導き出すところにあるのではないでしょうか。
 そもそも論を言えば、民主主義というものは、多数をとったものが総取りをしていいというシステムではない。成熟した民主主義は、価値観の違う者が、その相違を乗り越えて議論し妥協点を探っていく方法ではないのか。議会と議論すらしないというのでは、民主主義の根本を見失っているとしかいいようがない。対立があってもいい、論争があってもいいんだ。
 コラムニストの勝谷誠彦さんがこんなことを言っている。
《対立があり論争があり、その結果はむしろaufheben(止揚)されるというのが、近代の私たちがたどりついたひとつの結論なのだ。》
 どういう理由にせよ、市民に選ばれた議会との議論を避け、休日の市役所庁舎にこもってオウム真理教よろしく部下に報道クルーを逆撮影させている首長が、どんな理想を掲げていようとも、そのプロセスとして地域のきずなを壊していることを認めるわけにはいかない。
 地方自治は複雑である。白か黒か、0か100かといった単純なもので決め付けることは極めて危険だ。
 竹原市長は、阿久根市に革命を起こそうとしているが、地方自治に革命はそぐわない。田の畝を一鍬ずつおこしていくような地道な努力の総和が地方自治である。元軍人だったせいか、この人のやることは短兵急すぎる。
(下に続く)