(上から読んでね)
例えば「芝浜」である。朝早く叩き起こされた魚屋の金さんが、天秤棒を担いで浜に向かっている。噺家は天秤棒を担いだ動作をしながら「うー、さむい、さむい。眠む気なんかすっかりさめちまった。しかし、魚屋なんてつまらねえ商売だなあ」と呟く。この時、客はなにもない高座に、薄暗い江戸の街並みをとぼとぼと歩く金さんを見ている。金さんと一緒に手話通訳者が通りを歩いていたら、そりゃぁおかしいでしょ。少なくとも手話通訳者は講座から降りて、聴覚障害者からは見えるが、大多数の客の視野から外れたところで通訳をすべきだった。「聴覚障害者のために」という大義名分の前に大多数の落語ファンの楽しみを犠牲にしているということを見失っている。少なくとも、ワシャは落語家の横に普通の格好をしたオバさんが突っ立って、顔面や手をのべつ動かしていたら落語を楽しめない。手話落語というものならいいが、9月17日に安来市民会館に集まった大多数の人は普通の落語を期待して来ていたのではないか。鈴本演芸場で、新宿末広亭で通常の落語に手話通訳者はつかない。どうしても手話で落語を見たいというなら、手話落語の古今亭菊千代を呼ぶべきだった。
島根県ろうあ連盟は夢之助、安来市、落語芸術協会に抗議文を送ったという。なにをとち狂っているのか。落語芸術協会は安易に謝罪してはいけない。
極論を言うが、安来市では、歌舞伎を招聘したときも、「勧進帳」の弁慶の横に手話通訳者を立てるのだろうか。能の「隅田川」でシテの横に手話通訳者を並べるのだろうか。この記事を読んで、大相撲の土俵に上がらせろと騒いだどこぞの県知事の話を思い出した。