それはおかしい その1

 9月に島根県安来市で落語家の三笑亭夢之助独演会があった。そこで手話通訳がつけられたのだが夢之助は「気が散る」ということで、通訳に舞台下へ降りてもらったそうだ。
 別にニュースでもなんでもないじゃん。でも、ニュースになっている。え、なんで?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071031-00000020-mai-soci
 そもそも落語と言うのは話芸である。夢之助の実力はともかく、彼が言った「落語は話し言葉でするもので、手話に変えられるものではない」というのは正論だ。手話の達人がいたとしても、噺の機微は手で伝えられるものではない。落語を手話で理解しようということ自体に問題がある。
 茂木健一郎『芸術の神様が降りてくる瞬間』(光文社)の中に、落語家の立川志の輔との対談が載っている。志の輔はこう言う。
《落語は、後ろに屏風があるだけでなにもないんですよね。扇子と手拭いっていうけどそんなものは関係なく、なにもない。なにもないんだけど、なんでもあるんですよ。》
 高座はただの舞台ではない。とくに江戸落語はいたって簡素だ。そこには志の輔が言うようになにもない、なにもないが観客がイマジネーションを増幅させるすべてが詰まっているのだ。
(下に続く)