笑える朝日

 5月4日の朝日新聞社会面。昨日は、「くらやみまつり」で盛り上がってしまったので、書くのを忘れてしまった。だから遅ればせながらということで……。

《元「ネトウヨ」の新聞記者「レッテル貼りが対話奪う」》

https://www.asahi.com/articles/ASM4X7J6TM4XUTIL037.html

 相変わらず、途中までしか読ませてくれないので、全文は、図書館などで紙面をお読みくだされ。

 ざっとの概要は、元「ネトウヨ」と称する「琉球新報」の記者が、「ネトウヨ」だったことを「朝日新聞」紙上で懺悔をしているというもの。しかし、「琉球新報」「朝日新聞」と並んだ瞬間に、ワシャは眉に唾をつけましたぞ(真剣)。

ネトウヨ」当時にこの人は《批判の矛先は決まっていて、沖縄の地元紙や、米軍基地建設に反対する人たちは「反日勢力」ととらえていた。「ネットという自由の海で発信することが、国を良くすることにつながると信じていた」》のだそうな。まぁ、それは若いということもあって、そういった考えになることもある。

 そしてこう続ける。

《迷いが生じるきっかけは実社会での対話だった。ヘリパッド建設反対で座り込む人たちを論破しようと東村高江に行くと、「日当をもらっている人」も「中国や韓国の人」もいないばかりか、生活を守りたいという「想定外」の市民の言葉に気おされた。》のだそうな。

 ここがこの記者の限界だな。点だけを確認して思い込むとは、ジャーナリスト向きではないね。27歳だそうだが、まだまだ甘い。「ネトウヨ」だった頃から、まったく進化していないわさ。

「日当をもらっている人」も「中国や韓国の人」はいないと断言するが、どれほどの現場を廻ったのだろう。現実に本土から「アゴアシ」付きで来ている大阪弁の有名なプロ市民は映像に映っているし、ハングルや簡体字で書かれたプラカードも写真に撮られているよね。これをどう説明するのか?新聞記者、ジャーナリストを名乗るならこのあたりをきっちりと説明して、その上での懺悔ではないのか。

 この種の左傾人でもっともよくないのは、周辺に同調勢力しか存在しないことである。要するにオウム真理教サティアンの中にいるのと同じで、過去の自分を全否定し、今の教祖に絶対的な帰依をいたします……という洗脳をされているのである。蛸壺の中にいるものと思えばいい。

 この若い記者は最後にこう言っている。

《自分は、立場の違う人と話すことで世界街広がる経験をした。だからこそ、一人ひとりの多様な意見を大切にしたい。》

 それはけっこうだ。しかし、あなたの先輩の記者が百田尚樹氏の講演会の後に、「話をしようや」という百田さんに対してまったく、栄螺が蓋をするように自分の意見に閉じこもって、結局は議論にならなかった映像も残っている。

 このあたりの社の姿勢も説明しなければ、口先だけで「多様な意見を大切にしたい」と言われてもねぇ。

 自称「元ネトウヨ」だった「現サヨク記者」を全国紙の社会面に登場させて、読者を誘導しようとしている。おそらく熱心な朝日新聞読者なら「なるほど!」と膝を打つのかもしれないが、そんな素直な読者ばかりではないのである。

 

くらやみまつり

 昨日のタイトルの「だらだらと、すぱっりと」は「すっぱりと」の誤記ですね。失礼いたしました。

 

 

 今日は、府中の六社明神(大国魂神社)の「くらやみまつり」のもっとも重要な祭儀の行われる日である。

https://www.ookunitamajinja.or.jp/matsuri/5-kurayami.php

 このいかがわしそうな(笑)名前のついた祭を、小説の冒頭にもってきたのは司馬遼太郎で、その作品はワシャがもっとも好きな『燃えよ剣』である。

 プロローグで、主人公の若い歳三は、ゆかたがけで六社明神に急いでいる。そのゆかたの下には柔術の稽古着をこっそりとまとっていた。司馬さんの文章を引く。

《歳三のこんたんでは、》

 この歳三というのは、後の新選組副長の土方歳三である。

《祭礼の闇につけこんで、参詣の女の袖をひき、引き倒して犯してしまう。そのときユカタをぬいで女が夜露にぬれぬように地面に敷く。その上に寝かせる。着ている柔術着は、女の連れの男衆と格闘がおこった場合の用意のつもりだった。》

 なんとも物騒な用意である。引用を続ける。

《歳三だけが悪いのではない。そういう祭礼だった。この夜の参詣人は、府中周辺ばかりではなく三多摩の村々はおろか、遠く江戸からも泊りがけでやってくるのだが、一郷の灯が消されて浄闇の天地になると、男も女も古代人にかえって、手当たり次第に通じ合うのだ。》
 なんとも結構な祭礼でゲスな(笑)。

《いわば、女の夜市なのだ。》

 と、司馬さんは言いきってしまう。しかし、日本各地に同様な祭礼は多く、もちろん今では、そんな形態はなくなっているだろうが、『燃えよ剣』が「週刊文春」に連載されていた昭和30年代には、まだまだ許容されていた文化だった。

 おそらく司馬さんは、この起こしを書くために多摩地域に綿密な取材を重ねている。その時に土地の古老から「女の夜市」の話を聞き、「これは使える!」と思ったに違いない。

 司馬ワールドでは、歳三がこの夜に、自らの新たな運命まで抱き寄せたと書く。夜市でまぐあった女が、従四位下猿渡佐渡守の妹、お彩佐さまであったのだ。彼女が歳三を京都へと誘っていく役割を演じる。

 見事な導入部であり、少し色っぽくもあり、昭和30年代に「週刊文春」の連載を通勤電車の中で少し体を縮めながら必死に読んでいたサラリーマンが数多いたであろうことは想像にかたくない。

 

 平成を経て、令和の時代になり、「くらやみまつり」は単なる地方の祭礼となっていることだろう。しかし、こういった古代より伝承される大らかな「こと」が減少している、あるいは消えてしまった先に「少子化」という問題が横たわっているようにも思える。

 

だらだらと、すっぱりと

 下記はBBCのニュースである。

《日本の寂しい天皇制反対派 改元に沸く国内で縮小》

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190503-48146846-bbc-int

 昨日の続きのような話になってしまうので、さっさと切り上げたい。

4月末に「天皇制反対派」の老人たちがどこかの公園に集まって「天皇の戦争責任を忘れるな」とシュプレヒコールを上げたんだとさ。

 記事は長いので読むまでもないですが、要するに「天皇の名の下に日本が1930年代から1940年代にかけて戦った戦争を償うには、天皇制を廃止するしかないという主張」をする老人たちがでも行進をしたということ。

 いろいろな主張をすることは自由だ。しかし勉強を怠ってはいけない。十年一日のごとく叫んできたことが本当に正しいのか、そのことは日々検証していかなければいけない。昭和天皇に戦争責任があるとするならば、どこにどのような責任があったのか、仲間だけでマスターベーションをしあっているのではなく、あなたたちと意見の違う人間とも議論をするべきだ。そして皇室を敬している人たちを論破すればいい。しかしこの手の人たちは絶対にそういうことを避ける。そもそも勝てないからね。だから悠仁殿下への卑怯な直接的行動を起こしたりする。

 これは、沖縄の基地問題でも言えることで、奴らは自分たちの要求が通らないと、すぐに道路を封鎖したり、暴力に訴えたり、工事関係者や無抵抗の警察官を写真撮影したり、個人名を挙げて脅したりする。こういった左翼が高齢化しているという。結局、1960年代に洗脳されたものが、半世紀を経ても、牛の小便のようにだらだらと続いているんだね。ある意味で悲劇だ。

 

 こんな話ばかりでは切ないので、ワシャ的に楽しい話をひとつ。

 曽野綾子さんのエッセイ集『自分の財産』(産経新聞社)に、歌舞伎の「勧進帳」の話があった。曽野さんは「勧進帳」を歌舞伎団位置の名脚本と認め絶賛している。ワシャも「勧進帳」が好きで、團十郎猿之助幸四郎など多くを観て、そして感動してきた。それはこの話が勇気ある強い男たちの優しい思いやりのドラマであるからだ。そのあたりを曽野さんの文章から引く。

《十分に人を疑うことのできる甘くない富樫が見抜いたのは、弁慶の侠気(おとこぎ)である。ただ騙されるのではない。富樫は、弁慶の忠誠の前に、男として騙されてやったのだ。そして弁慶は、素知らぬ顔で去っていく富樫の後ろ姿に向かって、深々と頭を下げる。》

 騙す方と騙される方、その双方が全てを知りつつも、その瞬間の男の美学で一致している。ああ、また「勧進帳」が観たいなぁ。

 

マスコミの作為

 共同通信のニュースである。

共同通信社が1、2両日実施した全国緊急電話世論調査によると、即位された天皇陛下に82.5%が「親しみを感じる」と回答した。「親しみを感じない」は11.3%にとどまった。皇室典範で「男系男子」に限るとした皇位継承を巡り、女性天皇を認めることに賛成は79.6%で、反対の13.3%を上回った。》

 今上陛下に「親しみを感じる」が8割を超えた。これは善きことであろう。「親しみを感じない」が11.3%。まあ1割くらいはひねくれ者や反動思想に凝り固まったバカはいる。

 こいつもそうだろう。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190502-00000103-dal-ent

 悠仁殿下の机に刃物を入れた危痴害は見せしめのために磔でいいと思う。冗談で言っているのではない。2000年続いてきた皇統に害をなそうとしたのである。それは国に対しての悪逆であり、日本の歴史に対する非道である。控え目な司馬遼太郎ですら世界に誇った日本の歴史を台無しにしようとする輩を許すわけにはいかない。「思想団体の背後関係はない」というような報道がなされているが、そんなわけがないだろう。なんらかの左翼思想、革命思想が危痴害の頭を染めている。きっちりと背後関係まで追求しろよ、ボンクラマスコミ!

 いつもどおり話が逸れた。ボンクラマスコミの行った世論調査の話だった。《皇室典範で「男系男子」に限るとした皇位継承を巡り、女性天皇を認めることに賛成は79.6%で、反対の13.3%を上回った。》のくだりが極めて危険なのだ。上記の危痴害と結果として同じくらい危ない。

 共同通信が電話調査を行ったというけれど、対象者のどれだけが「女性天皇」と「女系天皇」の違いが解っているのだろう。この違いが解らない人たちに是非を問うてもまったく意味がないばかりか、世論をミスリードする結果につながってしまう。まぁ共同通信自体が左傾しているから、自社の方針には外れていないのだろう。けれど、そのことを国民が知らずして、ある方向に導かれ国を失ってしまうようなことになってからでは遅いのだ。

女性天皇」は126代の天皇の中に何人もいる。そんなことは常識と言っていい。聖徳太子が活躍した時期の推古天皇は女性だし、大化の改新の時期の皇極天皇も女性である。このように「女性天皇」は多数存在する。

 しかし、皇統は「男系男子」で2000年をつないでおり、「女系」が一度すら入り込んだことのない伝統文化なのである。これは法隆寺の基礎を修繕するので、ついでに全部を法隆寺ビルに建て替えようというくらいの暴挙なのである。「女性宮家」が認められ、その子孫から天皇が出れば、もう日本の天皇家の歴史は終わる。その重大な事実を「男女同権」とか「女性蔑視」とかの、あえて言うけれども「些末」な話で、古代から連綿と続いている歴史という流れをせき止めてはいけない。

 歴史というものは、今を生きる我々だけのものではない。過去に存在した数多の人びと、未来につながっていく多くの子孫たちと共有しているものなのである。一時の「価値観」で安易にことを考えてはいけないし、なんの知識もなく「賛否」を表明してはいけない。歴史を学べ、本を読め、本物の識者(池上彰じゃないよ・笑)の意見に耳を傾けろ。

 色に染まったテレビや新聞には注意深く当たろう。ワシャの場合は、月刊「Hanada」も読むけれど、中和剤として「天下の朝日新聞」も読んでいるからね。

刈谷市歴史博物館

 令和元年の初日、東海は雨だった。慈雨と考えればこれもまた善し。使い古されているけれど「雨降って時(代)かたまる」というところか。

 そんな雨の中、ワシャは隣町の刈谷市歴史博物館を覗いてきた。この3月にオープンしたばかりのほやほやの施設だ。どんな施設を刈谷市が造ったか、こっそりと調査に行ってきた。

 刈谷市は城下町である。刈谷城(亀城)から東へと発展した町で、その核となった城の本丸跡がいい感じで残っている。ワシャは「城跡好き」を自認していて、上物にはあまり興味がない。それでも一般の人よりも「城好き」なんだけどね。それでも、刈谷城本丸は城を再建したほうがいいと思う。まず街のシンボルになるし、水野勝成を始めとして、市民が歴史に興味を持っている。「城のある街」というだけでロマンが漂うではありませんか。必ずやシティープロモーションに使える強いネタとなること間違いない。その先鞭ということで、「刈谷市歴史博物館」が造られたのだと思う。まずはご覧あれ。

https://www.city.kariya.lg.jp/rekihaku/

 建物の外観である。遠目には丈三建ての古民家を思わせる風格を持っている。高くそびえていないところにセンスを感じた。おそらくは本丸とのバランスを考えた結果ではなかろうか。博物館の南に駐車場があって、駐車場と館を隔てる樹木が植わっている。これはまだ植えて間もないので大きくない。だがこれが何年かたって大樹になると、とても雰囲気のある場所になることだろう。建物を造るということは、10年20年、あるいは百年先のこともイメージしながら造らなければならない。その点で、この建物は先々が楽しみになる要素を多く持っている。

 さて、中に入ってみる。入口に立っても中が見えない。これは、どこの施設でもそうなのだが、ガラス張りで中を見通せるようになった施設は、今風の施設ならいいのだけれど、「歴史」をテーマにした建物にはいささか似合わない。ここは中を見せない重厚さが活かされていると感じた。

 中に入ると、エントランスが建物の南側に帯状に広がっている。片流れの高い天井が木の胴縁で構成されている。これもいいねぇ。PFIとかいう民間資金導入で造った施設は、全体にチープ感が漂うのだが、しっかりと予算を組んで確かなものを造れば、こういった重厚感のあるものができるのである。まぁ市民性の違いといえば違いなのだが、時のトップのけち臭さみたいなものがあからさまに出てしまうので、施設建設というのは恐ろしい。本当にケチな自治体では、建て直すこともせず修繕修繕に明け暮れて、結果として新築を造るよりも金が掛かってしまった……なんていう「安物買いの銭失い」といった情けないところもある。どことは言いませんがね(笑)。刈谷市はマヌケな自治体を真似しなくてよかったね。

 エントランスに向かって右に「お祭りひろば」なるものがあって、暗い入口を潜っていくと刈谷の山車や万灯の光が充満する煌びやかな空間が現われる。2階までの吹き抜けになっていて、この迫力はいかばかりであろうか。祭の音も再現されていて、ここにちょっと腰かけられる椅子でもあったら、癒しの空間としては絶好の場所になるだろう。刈谷の祭りに縁のないワシャですら、この空間なら1~2時間、光と音に抱かれて過ごすことができる。上等な瞑想の空間となるだろう。

 エントランスの北側にある「講座室」では企画展の関連イベントで「水野勝成伝~“鬼日向”とサムライたち」をやっていた。寺沢武一の弟子というから、手塚治虫の孫弟子にあたる正子公也氏の大型パネルに描かれた色男過ぎる戦国武将が描かれている。これもまた善し。

 現在、刀剣女子なるものがブームだそうだが、そういった方向性からも色男の戦国武将を並べておくのも悪くはない。それにね、いい女を揃えておくのも悪くはないですよ。実際にパネルの中に「井伊直虎」や、名前を忘れちゃったけれど馬に乗った凛々しい女武者の絵がありましたよね。そもそも刈谷の姫君たちはその美貌をうたわれた。そのことは磯田道史さんも太鼓判を押している。今回の正子氏に依頼して、戦国の女たちをずらりと並べて見せるのもおもしろいかも。

 事務室の横にある階段を上がると右手はお祭り広場を2階から見下ろせるスペースとなっていて、これはこれでおもしろい視点である。山車の上部なんて普段はなかなか近くから見られるものではないですからね。こういった視点を取り込んだところは、高山の山車会館に勝っている。

 階段の反対側が歴史ひろばと企画展示室の2つの展示スペースがあり、歴史ひろばは常設展示で刈谷市縄文時代から近現代までをコンパクトにまとめてある。

 企画展示室は、まさに「水野勝成展」で、ここは学芸員か解説員、あるいはワシャ(笑)といかないとちょいと難しいかなぁ。

織田信長朱印状」とか「豊臣秀吉朱印状」、「小牧長久手の古戦場図」とか「関ヶ原合戦之図」とか、内容を知っていて、背景を熟知するものが解説をすると、とたんに歴史ドラマが拡がってきて、面白さが百倍になるんだけどね。

 せめて古文書の横に小さくてもいいので訳文を並べると理解しやすいと思う。もちろん図録には巻末に「資料翻刻」が載せてあって新説なんだけど、それすらも漢文表記なので、現代文にしておくことが一般の市民をさらに歴史の世界にいざなう好手ではないだろうか。

 

 最後に、エントランスにもどって、木製の椅子に座っていると、愛嬌のある職員が声を掛けてくれた。ワシャが胸元に付けていた「チコちゃんバッチ」に反応をしてくれたのだ。

「可愛いですね」

「可愛いでしょ、チコちゃんに叱られないように自分へのいましめにつけているんです」

 こういうたわいのない会話のできる職員は優秀だ。もちろん他の係員も親切で対応がよかっなぁ。しつけのいい職員ばかりだった。

 雨なのでそれほど混んでいなくて、居心地のいい施設だなぁ……なんてことを思いつつ、庭を眺めてぼんやりしていると、あることに気がついた。

 ここに座って見ると、駐車場が見えないんだな。ちょうど城の石垣のように積まれた横長の石積みで、野暮な景色が遮断されている。そこに樹木が植わってエントランス前の庭をいい空間に仕上げている。

 石垣は段違いになっている。その2本ともがエントランスに平行に構築されている。手前のほうで5~6m、奥のほうで10mくらいかなぁ。

 そこに向かって砂利が敷き詰められ、その砂利の中に10本ほどの花崗岩が線のように、やはりエントランスと石垣に平行になるように並べられている。

 

 おもしろいデザインだな。どういう意図があってこのようなデザインにしたのだろう。係員に聞いてみたが、「さぁどういう意味があるのでしょうか」という答えだった。

 むふふふふ。チコちゃんは知っている。石垣は刈谷城の石垣を模している。そして庭は、衣が浦、海をイメージしている。この石の連続した並びは、波を表していて、平たい石の線の間にときおりごつごつした面を見せた石線がある。これが白波を立てている潮だ。刈谷城の海に面した石垣に打ちつける波、これをイメージして造られた庭ですよね。

 ううむ、センスのいい建物を造られると、近隣市のワシャとしてはちょこっと悔しいのだが、がんばってワシャらのところもセンスを磨こうとあらためて思ったのだった。

「令和」のはじまりに際して

 居住まいを正して、朝から書庫で本を探している。せっかく「令和」の初日なので、ここは皇室関係の本を読んで、なにか見つけようと思ったのじゃ。

 ワシャは、歴史・文化・伝統を重んずる上品な保守なので、皇室に関わる本はけっこう持っている。『昭和天皇実録』(東京書籍)は16巻に及ぶし、その他にも『昭和天皇伝』(文藝春秋)、『昭和天皇巡幸』(創芸社)、『昭和天皇』(文藝春秋)、『昭和天皇独白録』(文藝春秋)、『摘録[天声人語]昭和天皇』(朝日新聞社)などなど、昭和天皇についてはかなりの資料がある。コミックまで揃っている。

 しかし上皇陛下の書籍となると、ワシャの書棚にはいささかさみしい。見つかったのは、『道 天皇陛下 御即位十年記念記録集』(NHK出版)だけだった。上皇后陛下に関しては『皇后陛下お言葉集 歩み』(海竜社)、『橋をかける』(文春文庫)、『皇后さまのうた』(朝日文庫)が見つかった。

 上皇陛下におかれても、いずれ「お言葉集」などが出されるだろうから、それを楽しみに待ちたい。

 あ!こんな本も見つけましたぞ。『テムズとともに』(学習院教養新書)である。著者は「徳仁親王」とある。「なるひとしんのう」つまり「今上陛下」の著作である。ずいぶん前に入手してサラサラと目を通しただけなので、それほど鮮明に覚えていないけれど、今上陛下が昭和の時代にオックスフォードに留学された際の、思い出の書であった。なにしろ、当時の徳仁親王殿下のおやさしい人柄がにじみ出ているような記憶がある。

 

 そういう本はあるけれど、上皇陛下に関わる本がない。ワシャは諦めが悪いので、それでも書庫の中で苦戦していると、『文藝春秋』の「90周年記念特別編集本」を見つけた。表紙は徳仁親王をお抱きあそばす「美智子皇太子妃殿下」、裏表紙は「昭和天皇」と、ここでも表に出てくるのはこのご両所で、ワシャの蔵書と同様に美智子様昭和天皇の輝きが強いために上皇陛下が見えにくいのかなぁ……と思ってしまう。でもね、この雑誌の後段にある「東日本大震災」の先の天皇皇后両陛下の活動記録には目頭が熱くなった。ここまで日本国民のことを考えておられるのか。

 いずれ、太上天皇陛下についてもいろいろな書籍が出版されることであろう。いや、すでに何冊も出ているのだろう。そういった書籍をそろそろと集めようかと思っている。

 平成はついに「無職」で終わったけれど、令和に入って「再就職先」も決まった。本くらい買う収入はあるだろう。がんばって平成の御世を治められた天皇のことを勉強するど~!

 

 それから拾い物がひとつあった。「90周年記念特別編集本」の巻末に4人の識者によるシンポジウムの記録が載っていたのだ。一人は司馬遼太郎、これだけでもめっけもんだった。そして福田恒存、こんなところにもいたんですね。その他に山崎正和林健太郎が加わっている。

 ワシャとしては、司馬さんと福田さんのやりとりがおもしろく、ここを夢中になって読んでしまった。

 令和初日から司馬遼太郎福田恒存と邂逅するとは、こいつぁのっけから縁起がいいわぇ。チョーン(柝の音)。

平成時代よさらば

 もう新聞もテレビもこのニュースで満載ですわな。だからワシャは平成に惜別をするようなことは書かない。それよりも202年ぶりになる天皇の退位のほうに興味がそそられた。

 今回以前に退位された最後の天皇は、202年前の光格天皇である。119代の天皇で、父の後桃園帝から8歳で譲位を受けた。さすがにこの年齢に皇室を率いる力はなく、上皇院政を敷いた。在位年数は江戸時代の天皇としてはトップで39年であった。

 時期としては、江戸を前中後期の3つに区分したとして、後期の初めの時代ということになる。光格天皇が即位する少し前に、江戸幕府では田沼意次が頭角をあらわし、老住職に就任している。また、天明の大飢饉が発生し、田沼失脚後、松平定信という堅物が老中になり、息苦しい時代が始まった。日本近海にはロシヤやエゲレスの艦船が出没し、海防問題がクローズアップされた頃でもある。林子平が「海国兵談」を著したのも、この天皇の在位中であった。日本周辺が騒がしくなってきており、ここから幕末へと諸事が動いていくのだが、まだこのころの皇室は平和であった。

 光格天皇関連で特筆すべきは、「尊号事件」というもので、これに堅物の松平定信が関わっている。ワシャは、徳川歴代の大老・老中の中でも、この石部金吉がもっとも嫌いだ。こいつとだけは友だちになりたくないと思っている。

 そんなことはどうでもいい。「尊号事件」だった。

 光格天皇の父は閑院宮典仁(すけひと)親王で113代の東山天皇の孫にあたる。典仁親王の兄が中御門天皇で、その流れが5代続いた。118代の後桃園天皇には男子がなく、東山天皇の曾孫にあたる閑院宮家から師仁親王を迎えて、後桃園天皇の娘の欣子内親王を皇后におさめ、119代光格天皇となる。

 話が面倒くさいですけど、要するに光格天皇のおとっつあんは親王様だったということで、親孝行の光格天皇は「父上に太上天皇の尊号を贈りたい」と幕府に打診してきたんですわ。

 時の将軍が徳川家斉、側妾40人、子供は55人を数えた性豪将軍だった。しかし、気分は晴れやかな男で、光格天皇からの申し出をこころよく承諾しようとしたのだが、老中が悪かった。例の松平定信である。こいつだけが杓子定規に猛反対をして、弁が立つのをいいことに、将軍、老中を説得してしまった。

 この堅物の阿呆のおかげで光格天皇の親孝行はできなかった。明治政府によって、典仁親王には「慶光天皇」と追尊され、光格天皇の意志は遂げられるわけだけれども、残念ながら光格天皇はすでに崩御されている。バカな官僚がいると親孝行もできないというエピソードでした。

 

 このことの関連で皇室のことを調べていたら、こんな事実を発見しましたぞ。今上天皇が125代であられるので、わずか12代前の東山帝(113)で配偶者は4人、中御門帝(114)で6人、桜町帝(115)で3人、桃園帝(116)で1人、後桜町帝(117)は女帝である。桃園帝が22歳で崩御し、後継の御子がまだ4歳であったことから、急遽、皇位を継承し、桃園帝の御子の成長を待った。女帝であるし、中継ぎだし、配偶者もいない。

 この後、御子が成長し、後桃園帝となるのだが、この方も22歳で崩御しておられる。だから女子一人しかもうけられなかった。そこで傍系から光格天皇が入られるわけだが、この人はがんばって8人の配偶者とがんばって17人の御子に恵まれる。家斉ほどではないにしろ、艶福家ではあった。

 

 なにを言いたいかというと、ワシャは皇室を敬してやまないものであるが、天皇家系図を見ていると、やはり天皇家を存続させるためには、子や孫がたくさん必要だということである。中御門系が3代で絶えてしまったように、子が少ないと血脈というものはいともたやすく消えてしまうのである。これが庶民ならば致し方がない。しかし、125代、明日になれば126代続く皇室が絶えてしまっては、日本そのもの、あるいは日本の伝統文化の大いなる喪失につながる。国家の存亡といってもいい。

 今や、次世代で皇統を継いでいけるのは悠仁様お一人になっている。古代より連綿と続いてきた天皇家を絶やしてはいけない。

 平成が終わろうとしている今こそ、そのことを真剣に考えなくてはならない。