能の話

 清貧なワシャから600円を搾取した豊田市のことは措いておく(笑)。

 それよりも「お能」のことである。

 人間国宝の大槻文蔵さんの主宰する会の定例会。随所で人間国宝の謡が聴ける、これはなかなか有難い。

 でもね、能楽堂の458席のうち50席が埋まっていたかどうか。通常のプロの能楽師による「能」ではなく、大槻文蔵師の弟子による仕舞、素謡、舞囃子なので、関心が薄かったのかもしれない。まぁ、本格的な「能」の舞台だとしても満席になるかどうか。昨今(といってもここ何十年の話だが)、簡単な娯楽が巷にあふれ、あえて「能」などという小難しいものに時間を割くことがなくなってきたことも客の少なさに影響しているのだろう。

 一時、「落語」が凋落した時期があったが、小さん、円生、談志などの活躍で、今や古典芸能のトップを走る勢いである。「講談」は「落語」の後塵を拝していたが、神田伯山の登場で最近は陽の当るところにでてきた。

「落語」「講談」、これは一応客が理解できるから人気が再燃してきた。噺家も講談師も現在の日本語を使って語っているからね。

 しかし、「能」の謡(うたい)や「文楽」の義太夫(ぎだゆう)の日本語は難しい。ワシャは「能」にしろ「文楽」にしろ、観る前にあらかじめ物語を読んでおくことにしている。そうすることで意味の取れないフレーズに差し掛かっても、いくつかの単語を拾うことで「あのシーンだな」とあたりをつけて物語をつないでいく。そうするとぼんやりとだが意味不明の日本語でも聴いていて理解できたような気になるから不思議だ。

 今回、素謡では「弱法師(よろぼし)」がよかった。今回、会のプログラムをまったく「能」に興味のない友人からもらったのだが、プログラムを見てワシャが「ほう、よろぼしをやるんだね」と言ったら、「え、何を言っているの?」という困惑の表情をしていた。「よわほうし」「よわぼうし」あるいは「じゃくほうし」としか読めないものね。曲名からしてこれである。その内容に至っては、なかなか理解のできるものではない。それでもね、事前に物語を読んでから行くことにしているから、「月落ちかかる」とか「淡路島山」などという言葉を耳にすると、「あの辺りかな」くらいは想像できる。

 もう一つが「百万」という曲。これを友人が舞囃子で演じた。舞囃子というのは、素面、紋付き袴で、シテ(主人公)が一人で地謡、囃子によって曲のクライマックスを舞う形式。

 これがよかった。友人は長く能楽を学んできた。仕事を退職してからも、今も再雇用で働いている一般の人である。しかし、上手かった。何人かの長老のお弟子がやはり舞囃子を舞ったが、声、姿勢の良さ、足送りの滑らかさが群を抜いていた。

 とくに素面、直面(「ひためん」とも言う)で舞っているのだが、この表情がまさに能面のようで、まことによろしかった。

 能に詳しい白洲正子が『風花抄』(世界文化社)にこう書いている。

《自然は芸術を模倣する。何百年もの間、面をかぶりつづけた能役者の顔は、もはや自然のままではない。一種の能面と化している。》

 白洲さんは「直面は下手なうちは眼のつけ所が決まらない」と言う。友人は能役者ではないけれど、眼のつけ所が決まっており、まさに「深井の面」をつけているように見えるからおもしろい。

 19曲目を舞囃子、仕舞、素謡で聴かせてくれた。日本文化に触れるいい機会だった。テレビで芸人たちが漢字の読みを競っているようなものを見るくらいなら、よほどこちらのほうが意義のある、勉強になるものだと思う。

 だが、現実にはスイッチを押せば、画面に芸人のバカ騒ぎが映し出されて、それを笑っていたほうが、何も考えなくていいということらしく、なかなか能楽堂の席は埋まらないのであった。

「能」「狂言」「文楽」「歌舞伎」「落語」「講談」・・・日本の深~い伝統に根差した芸能だと思うんですがいかがでしょう?