伝統芸能

 昨日、某所で伝統芸能について話をした。伝統の芸能といっても、能、狂言文楽、歌舞伎、落語などいろいろあるでしょ。
 落語は一時期衰退の憂き目にあった。テレビに押されて、寄席に閑古鳥がないた。しかし、やはりライブでの笑いは不滅だった。その後の落語ブームで息を吹き返し、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いと言っていい。
 歌舞伎である。平成20年代に入って数多の歌舞伎の名優が倒れた。最近では、三津五郎が逝き、福助の復帰が叶わない。今や、歌舞伎は冬の時代に入っている。だが、ファン層の支持は衰えず、玉三郎が出演すれば大入りだし、若手も健闘をしているので客入りはいい。また、いろいろな新しい試みにも挑戦し、客を飽きさせない工夫があり、安心して見ていられる。
 文楽は際どいところにいた。しかし、最近の字幕の導入によって、ずいぶんと解りやすくなった。少なくとも太夫が何を言っているのかが、客に見えるのである。これは画期的なことだ。舞台の上で展開するドラマが理解できれば、もともとデフォルメされた人形のこと、生の人間ではできない大きなアクションや変化を楽しむことができる。文楽はここが切所である。ここさえ乗り切ってしまえば、これから増加の一途をたどる一定数の中高年に支持され、その命脈は安定すると思われる。
 狂言は、そのものが理解しやすく、野村萬斎のようなスターも登場したことで、ひと息ついている。名古屋の野村又三郎も成長著しい。また、狂言だけでテンポのいい舞台を構成し、観客を楽しませることを忘れない。舞台の背景や歴史を知らなくても大笑いできる狂言は、幸先が明るい。
 問題は能である。能はかなり危ない。ワシャは愛好者というほどのものではないが、それでも年に4〜5番組を観る。そのわずかな体験の印象でしかないが、名古屋能楽堂に足を運ぶ人の数がめっきり減ってきていると思う。謡をやっている友人もいるのだが、弟子の数も少なくなってきているそうだ。
 これは、『太閤の能楽師』(中央公論新社)の著者である奥山景布子さんも言っていることなのだが、能はあまりにも流派別れをし過ぎて、機能不全に陥っているのではないだろうか。観世、金春、宝生、金剛、喜多、シテ方だけで5つ、ワキ方にも二流あって、これがそれぞれ舞も謡も微妙な差がある。それぞれが自流に固執するため、他流の基礎票が動かないのである。ワシャは宝生流をよく観にゆくのだが、他流の友人は「観てもしかたがない」とまったく相手にしない。この壁を取り払って、能楽協会が一つにならないと衰退に歯止めはかけられないのではないか。
 もうひとつ、先ほど「狂言はテンポがいい」と書いたが、能は逆にテンポが遅い。長い曲目であれば2時間なんていうのもざらにある。これがゆっくりとした動作で展開するのだから、油断をすると落ちてしまう。そもそも能の高度の演技表現は動かぬところにある。それは分別しているものの、なかなかワシャらのような庶民には浸透していかない。
 それに、これも前述の奥山さんの受け売りなんだけど「戦国時代以前と比べて、能自体がスローになっているのではないか」ということである。流派が細分化されたことにより、それぞれの流派が芸にもったいをつけた結果、重々しくゆったりとしたものが継承されてきたのでは……という意見もある。
 ただ、逆に幽玄の世界に誘うには、ゆっくりとした時の流れは必須とも言える。ワシャの能友だちは、まだ観た回数こそ少ないけれど「敦盛の鼓に合せたゆっくりとした足さばきが素敵だ」と言っている。
 どちらにしても失っていい伝統文化ではない。ということで、ワシャはせっせと舞台を観に行くのであ〜る。