朝日新聞オピニオン欄。保守論客の佐伯啓思氏の「異論のススメ」という文章が載っている。お題は《「国民主権」の危うさ》である。佐伯氏はここでこう言っている。
《国民世論にしばしば見られる情緒的な動揺や、過度に短期的で短絡的な反応によって政治が翻弄される》
《世論は、安定した常識に支えられた「パブリック・オピニオン」であることはまれ》
《その時々の情緒や社会の雰囲気(つまり「空気」)に左右される「マス・センティメント」へと流される》
佐伯氏の論を踏まえて考えたい。
《あの時とは別人 小室さん ロン毛、ちょんまげ、ポケットに手入れ無視 関係者「もう少し考えて…」》
https://news.yahoo.co.jp/articles/369490bd0a8f2d39161fa7a0d60a5f562aed1808
この男性が、ちょんまげにしようがモヒカンにしようが、まったく興味はないが、テレビのバラエティーや新聞、雑誌に面白おかしく取り上げられているので、多くの主権者たちはいろいろなことをほざいているのである。故に、陛下におかれても皇嗣殿下におかれても、国民に配慮された御発言をなされておられる。
でもね、その主権者、国民が「女系天皇」と「女性天皇」の区別も知らないで、その時の情緒や空気で右往左往しているのである。
だから自民党の総裁選でも、地域の自民党を支える高齢党員たちは、県会議員や市会議員に「誰に入れたらいいんじゃ?」と訊いている有り様で、これほどネットにも活字にも候補者たちの情報があふれている状況であるにも関わらず、自分で目で確認し、頭で考えるのではなく「マス・センティメント」に流されようとしているのが現状だ。これが「国民主権」を支える現実なのである。
佐伯氏は言う。
《世論はしばしば「空気」によって左右される。それが「主権」の表明だとすれば、主権とは何とも移りやすく危なっかしいものというほかない。絶対主義の主権が危なっかしいのであれば、国民の主権もまた危ういものなのである。(中略)「主権」概念こそが、とてつもない危険なものを内包しているように思われる。》
佐伯氏は「主権」から距離をとるものとして「議会主義」「議院内閣制」があると言い、この「議会制度」が「民意を実現すれば政治はうまくいく」という妄想に囚われたところから、この国の劣化が始まったのではないかとワシャも思う。
そういった意味においては、賢人と民意とは離れたところで機能させる制度自体はいいのであるが、いかんせん、主権にゴマをすらなければ討論の場に参画できない現制度では、ゴマすりの知的レベルの低いものが多く混じるようになる。ここは、戦前の参議院ではないけれど、ある一定の社会的評価を受けている知識人をランダムに、民意とは関係のないところで、議会に参加させる制度が必要ではないか?以前の参議院にはそういった色合いも残ってはいたが、今の参議院は衆議院のコピーでしかなく、そういった意味では機能不全に陥っている。
賢人会議をつくって、あるいは参議院を賢人会議にしてもいいが、そこで「主権」から距離をおいた政策を考えていくのもアリだと思う。
佐伯論文を読んでそんなことを感じた。