勝谷さんの親近感

 作家でコラムニストだった勝谷誠彦さんが亡くなって1ヶ月余が過ぎている。「勝谷誠彦の××な日々」も終わってしまうのかなぁ……と思っていたが、スタッフの皆さんが頑張ってくれて「勝谷誠彦たちの××な日々」として継続している。それこそ、15年も馴染んできたメルマガだったので、取りあえずはホッとしている。
 今はね、勝谷さんの弟の友宏さんが「〜誠彦の弟から見たその生涯〜」という連載をされており、これがなかなか楽しい。
 勝谷さんには、東京のセミナーでお会いして、その後、名古屋に隣接する平和町丹波笹山でご交誼をいただいた。書籍やテレビなどでは一方的に拝読拝見していただけだけれども、類は友を呼ぶというか、同類項の臭いのする人であったから、ワシャは勝谷さんに傾倒していった。
同類といっても、もちろん勝谷さんと同じであるわけがない。ワシャとはけた違いの人だった。けれども、大きくカテゴライズすると、まあ同じ穴のムジナだったのかなあ……と思うのは、勝手でしょ(笑)。
 その思いが、友宏さんの手記を読むとさらに強くなる。
《兄が灘中を目指して受験勉強をしていた時、3000人程度の模擬試験で100番を下回ったことは無く、一桁の順位も数回経験、灘中学入試でもかなり上位の成績で入学した》
 ほう、勝谷さんは模擬テストなどではよく出来たんだなぁ。でも、灘校卒業時は、ケツから2〜3人目だったと、よく自慢しておられた。

 そのエピソードで、ワシャの中学生の頃を思い出した。
 ワシャは、中間テスト期末テストという範囲を限定されるテストでは、成績が振るわなかった。400人の同級の中で、一番上位で30番、出来の悪い時は100番以下にまで落ちた。どうしても抜けない上位30人くらいがいて、こいつらがいつも鼻で笑っていやあがった(クヤチー!)。
 ところがね、中部地方全体で実施する中部統一テストというのは得意だった。試験範囲が限定されないのである。中学2年生だったら、それまで習ったことがぜんぶが範囲になっている。そういった範囲指定のないざっくりとした試験には強かった。最高で、全市の同学年が1500人くらいいたかなぁ、その中で20位だったからけっこう良かったでしょ。
 現在は、市内の大規模校で校長をしている中間期末テスト強者の友人が、ワシャの中統テストの成績を見ては「まぐれだ」と憤っていた。彼の意識としては「中間期末のできるボクは秀才、できないワルシャワはバカ」と決めつけていたから、中統テストで一矢も報えないことに、彼は納得がいかなかったんでしょうね。
 
 そんな話はどうでもいい。要は、最初は優秀でも、クラブ活動や生徒会活動、文化祭や体育大会に血道を上げて、中学3年間と高校3年間で、成績をグングンと下げていった勝谷さんの経歴に、自分の自由奔放な青春時代が重なって、なんとなく親近感が湧くんですね。
 本が好きで、石が好きで、歴史が好きで、日本が好きで、ワシャら劣等生の星だったのに、酒とともに去ってしまったのがとても残念である。
 日本を嫌いな知識人は未だに大マスコミに支えられ大威張りで発言をし、善良な国民をミスリードしている。
 そんな状況下で、勝谷さんのきつい反論は反日勢力には恐かった。勝谷さんが彼岸に去って、やつらは胸を撫で下ろしているに違いない。

 弟さんの友宏さんの手記を読んで、そんな取り留めもないことを思ったのだった。