新年早々、だらだらとあっちへ飛び、こっちへ跳ね

 ほんの気まぐれなのだが、今年は旧暦で物事を考えてみようかと思いついた。なんの脈絡もなく思いついたけれど、思いついてしまったので、少し実践してみることにする。
 元々、歴史が好きなこともあるし、歴史小説を愛読していることもあって、旧暦を肌で感じてみることも悪くない。思い立ったら吉日で、今日から始めることにする。

 それでは、今日は旧暦でいうと何日かというと、11月下旬から12月上旬らしい。候でいえば冬至の第三候。
「旧暦カレンダー」
http://koyomi8.com/i/9rekical.php
によれば12月8日となる。
新暦・旧暦対照表」
http://www.ne.jp/asahi/on-yado/kawasemi/Kyureki-frame.htm
では12月9日。
「旧暦各月1日と現行暦の対照表」
http://sci-museum.jp/publish/text/koyomi/94.html
をみると12月8日だから、ここは多数決で8日を採用しよう。

 ううむ、12月8日という日にちを見れば、日本人は昭和16年を思い出すが、それは新暦のことなのでこの際おいておく。旧暦の12月8日である。
 古いところでいえば、689年。『日本書紀』巻の第三十「持統天皇」のところに「十二月八日、双六を禁止された」とある。
 これはどういうことかというと、当時、大陸から入ってきた双六ゲームのギャンブル性が高かった。これが人心を駘蕩させるとして浄御原令で禁止されたのである。当時の双六なるものは、現物が正倉院に残されているのでご覧ください。下のURLをクリックして、少しページダウンしてもらうと「紫檀木画双六局」があります。
http://www.kodomo-silkroad.net/heizyoukyou/syousouin/takaramono.html
 この台の上で筒に入れた賽を盤上に転がし、その目数によって駒を進めて勝敗を決する。博打の原点というような卓上ゲームである。
 持統天皇が、後代につないだ大和という国は、その後、1300年余続くわけだが、今では、持統天皇が懸命に禁止した博打、そして博打場がそれこそ全国津々浦々に蔓延している。人々は盤上をはしる銀の玉を目で追うだけの博打にうつつを抜かすありさまだ。

 そんなことはどうでもいい。
 やっぱりよくないけれど、とりあえず12月8日に戻ろう。
 こちらはもう少しまともに発展していきそうな話である。
弘安5年の今日、執権の北条時宗が元の襲来による犠牲者を追悼するために鎌倉円覚寺を創建した。そして無学祖元が住持として迎えられる。
 円覚寺
 円覚寺と言えば、小津安二郎墓所がある。北鎌倉駅を降りてすぐ、線路沿いに「臨済宗大本山 円覚寺」の石柱が立つ。そこに総門があり、そこから北東の方角に石段が続いていく。すこし登ると重厚な二層屋根の山門があって、その奥に仏殿が見えた。行ったのはずいぶん昔なので忘れている。
 確か、仏殿に行く前で、左の方向に曲がって、その先に墓地があったような……。
「無」と書かれた小津の四角い墓にぬかずいて、武運長久を祈ったものだ(なんのこっちゃ)。
 円覚寺の話をしていたら、鎌倉に行きたくなってしまったわい。

 そうそう元旦の朝日新聞仲代達矢倉本聰の対談が載っていた。その中に小津安二郎に触れる話が出ている。
 倉本さんがこんなことを聞いている。
黒澤明さんが亡くなってから仲代さんの芝居が変わったという部分はありますか?」
 これに対して仲代さんはこう答えた。
成瀬巳喜男さんの作品にでると、黒澤映画のような芝居しないで、と言われました」
 これを確認して倉本さんがこんな話をするのである。
《今、お聞きしたのは、笠智衆さんがね、小津安二郎さんが亡くなってから、すごく変わったんですよ。小津さんが亡くなってからNHKが「東京物語」をリメークしたんです、八千草(薫)さんと。それを見ていて、笠さんがあんまりいいんで、僕はびっくりしたんですよ。ああ、この人は小津さんに抑えつけられていたんだなあっていう気がして。》
 笠智衆さんが『大船日記』(扶桑社)というエッセイ本を出されている。その中でこう言っている。
「小津映画では、我々俳優は、とにかく先生の言われるとおりにやるだけでした」
 まさに小津映画というものは、小津安二郎一人で創りあげた芸術なのである。俳優は一つの素材でしかない。それでも、小津映画の中で笠さんは充分に俳優としてその役割をこなしていたと思うけれど、倉本さんの観たNHKの「東京物語」はすごく良かったんでしょうね。

 そうだ。今から酒でも酌みながら小津作品を観ようっと。