「そんなぁ」事件簿(1)

 文化3年(1806)10月22日にこんな事件があった。

 江戸は浅草三好町の長屋に住まう辰五郎は腕のいい飾り職人だ。今日もついつい仕事に熱がはいっちまって、家路についたのは六ツ(午後6時ごろ)を過ぎていた。家では一緒になってまもない女房のおかねが夕餉の支度をして待っている。御蔵前通りをゆく辰五郎の足が自然に速くなるのも道理だ。御蔵を過ぎ御用地の手前を右に折れたところの大川(隅田川)沿いの家並が三好町である。髪結い床の脇の路地木戸を入れば辰五郎の長屋だった。
 そのあたりまで差しかかったとき、その先の川べりから絹を裂くような女の悲鳴が聞こえるじゃねえか。辰五郎、はっとした。
「あの声は紛れもねえ、いとしい女房のおかねの声」
すわ何事かと、声の方に目を凝らす。今夜はまだ月がないので、ぼんやりとした軒行灯を頼りに様子を覗うと、十間ほど向こうに人の影が二つかさなっている。
「おかねか?」辰五郎が声を掛けると、小さい影のほうが「あんた!」と叫んだ。ついでに「助けて!」というじゃねえか。辰五郎、おかねの危機を悟って、飛び六法を踏むようにトントントンと駆け寄ると、大きい影に体当たりをした。
 大きい影は「グエッ」と妙な声を上げて道に倒れた。倒れたついでに「無礼者!」と怒鳴りやがった。
「侍(さむれえ)か」腕に覚えのある辰五郎、かわいいおかねを背後に庇い、その頃にはすっかりと目が慣れているから、頬肉の垂れた侍から目を離さない。
「どうしたんだ」
 辰五郎、背にしがみつくおかねに尋ねた。
「広小路まで用を足しに行ったのよ」
「ほう、それで」
「帰り道に、諏訪町あたりからこのお侍がつけてきたんだよ、路地に入ったら突然抱き着いてきてさ・・・」
「知っているお侍か」
「知らないよ」
「だろうな」
 その頃には件の侍、腰をさすりながら立ちあがっていた。
「下郎風情が、武士に泥をつけてただで済むとは思うなよ」

(後半は辰五郎と侍の大立ち回りだ。乞うご期待〈「そんなぁ」事件簿(2)〉に続く)