本能寺の信長

 天正10年6月2日未明、信長は京都本能寺で目を覚ました。以下は信長公記より引く。
「既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候ところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。是は謀反か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」
 文意はざっとこうだ。
「既に、信長の宿所の本能寺を包囲し、軍勢は四方から境内に乱入している。信長も小姓も、下郎が喧嘩でもしていると思っていたがそうではなかった。(包囲軍は)ときの声をあげ、御殿へ鉄砲を撃ち込んできた。信長は『これは謀反か?いかなる者の企てか?』と蘭丸に問いただせば、蘭丸、即座に『明智軍と思われます』と応える。」
 この後の信長の科白が格好いい。
「是非に及ばず(それじゃあ仕方がない)」
 鬼人の如く東海、北陸、近畿、中国、関東と席巻してきた信長が「明智光秀の軍勢」と聞いた瞬間にあっさりと諦観してしまうのである。この潔さは日本歴史の中でも出色と言っていい。
 信長は己が育てた道具(部下)の強さを熟知していた。光秀が本能寺を攻略し信長の首を挙げるのに、どのような手配りをしてどのような布陣をするのか手に取るように解かったはずだ。「それではどうしようもあるまい」という結論を導き出すのにさしたる時間はかからない。むしろ変人信長のことである。自分を漏らすような手配りがあったなら自分が助かったとしても癇癪を起こしていただろう。
 光秀の完璧な水も漏らさぬ布陣を見て、「うむ、これなら敵(自分なんだけどね)を逃がすことはない。惟任、見事なり」と己の道具の精緻さに喜びながら炎上する伽藍の中を駆けまわっていたに違いない。
 49歳の信長は寄せ手に対して高欄から矢を射掛け、矢が尽きれば槍で奮戦し、肘に手傷を負ったところで満足した。満足したところで燃え盛る伽藍の中に身を翻した。
 その後、明智勢は徹底的に戦場の検分をするのだが信長の骨一片見つけることはできなかった。魔王と怖れられた男は永遠に消えてしまったのである。この鮮やかさは心憎いほどである。