走る家康 その1

 徳川実紀にこうある。
「(家康は)秀頼生害の後、ひそかに城中をご巡視ありて、ご帰京あらむとて。かヽる大戦の後は必ず大雨出るものなりとて。御道をいそがされる。」
 家康は人生の最晩年、天下を磐石のものにするために大悪人となって、大坂城に住まう母子を追い詰めて、燃え盛る糒蔵(ほしいいぐら)で自刃させた。これで豊臣の血統は絶え、徳川家の禍根はすべて取り除かれたのである。どちらにしても関ヶ原の合戦からこの大坂合戦に到るまでの家康のやり方は少々えげつなかった。とくに方広寺の鐘名事件など灰汁の強い謀略を使ったために、家康への後世の評判はすこぶる悪い。
 大坂城落城後、冒頭の実紀にあるとおり家康は残骸となった大坂城を親衛隊とともに巡察している。累々たる屍の中を家康はあちこち歩き回った。道先案内が焼け落ちた山里廓を指差して「あの一角にて秀頼、淀の方が自裁して果てましてございまする」と言えば、家康、「そうか」と目を細めてその惨劇の跡を眺めたに違いない。17歳で初陣をかざり、以来、57年の長きにわたり修羅の戦場で過ごしてきた家康にとって死骸や灰燼に帰した城など見飽きるほど見てきた日常の風景なのである。まちがってもPTSDなどにはならない。
 そしてその巡視を終えると突如として家康は戦場から離脱する。一路、京都二条城を目指して北上するのである。距離にして11里(44キロ)、健脚な旅人で1時間に5キロ歩くとして、大坂城、二条城間は9時間ほどの距離ということになる。これが軍勢の移動となるとこうはいかない。古来より例がないといわれていた秀吉の中国大返しですら、一日に30キロの行軍でしかないのである。家康はこのとき11里を6時間で走破している。まさに脱兎のごとき逃げ足といっていい。
 仮にも家康は勝利軍の総大将なのである。なぜそれほどまでに急ぎ戦場を離れる必要があったのかは謎なのである。このことについて司馬遼太郎は、敗走者にも及ばないはやさで戦場から逸走したことの理由を次のように述べている。
「あるいは豊臣家に殉じたひとびとの亡魂がこの老人を走らせたのかもしれず、そう考えてみると、家康のこの異常な行動はそれ以外に説明の仕様がないようにも思える」
(「走る家康 その2」に続く)