近藤勇の死

 慶應4年3月1日、江戸梶橋の大名屋敷を出立する200人ばかりの武装集団があった。「甲陽鎮撫隊」と名づけられた滑稽な一団は、新選組局長近藤勇に率いられ、甲府城を目指し西へ進んでいった。
 この5ヶ月前、すでに徳川家の大政奉還は済まされている。だから幕府はもうない。ないにもかかわらず、老中という職責は残っており、その徳川家の執事程度の権能しか持たぬ老中たちに「甲府へ行って100万石を押さえられよ」とそそのかされ、軽躁な近藤は御府内から体よく追い出されるのである。
 結局、「甲陽鎮撫隊」は甲州勝沼の戦いで破れ、その後、千葉の流山まで退却し、そこで官軍に捕捉され、板橋宿のはずれの刑場で処刑された。近藤勇、享年35歳であった。
 この一連の新選組滅亡事件には、黒幕がいたようである。それは誰か。それは陸軍総裁勝海舟であった。勝は江戸城無血開城を目論んでおり、そのために決戦派の急先鋒の近藤らが目障りになっていた。そこで甘言を弄して単純な近藤を舞いあがらせたわけである。その辺りを土方歳三は薄々感づいていたふしも見うけられるが、大名になれると信じてやまない近藤の夢に負けてしまった。
 司馬遼太郎は言う。
「歴史の転轍機のテコをにぎらされたこの不思議な政治家(海舟)にとって近藤や榎本(武揚)程度の犠牲は、その計算の歩止まりのなかに入っていたに違いない」
 歩止まりで処刑されていちゃぁ近藤もたまったものではないが、時として政治は大局のために弱者の犠牲を歩止まりとして考えているふしがある。

 そうそうエロ拓さんが福岡2区で返り咲いた。復帰したからには小泉さんとタッグを組んで、歩止まりが落ちないように頑張ってちょうだい。