河原町 いっときの静謐や 直柔忌

 11月15日は竜馬の命日である。137年前の慶応3年、四条川原町近江屋の二階座敷で陸援隊の中岡慎太郎とともに、見廻組佐々木唯三郎らの襲撃にあい33歳の生涯を閉じている。その最期は、あまりにも無防備、あまりにも無頓着、まるで自ら死を望んでいるような風情にさえ見える。
 竜馬は死ぬ2日前に、陸奥宗光に書簡を送っている。内容は極めてのんきなもので、陸奥と刀のやりとりについて記されている。「おまんさぁにあげるつもりだった脇差は研ぎに出したんだが、連絡がちっともこんきに、いつ出来るかわからんちゃぁ。おまんさぁからもろうた短刀は、わしが差し上げようと思っちょた脇差より、余程、ものがいいちゃぁ。また、わしの持っちょる吉行(長脇差)を見たいっちゅうことじゃき、今度、見せちゃるきに……」というような長閑な内容であった。
 竜馬にしてみれば「船中八策」を起草し、「薩土盟約」を周旋し、「新政府の組閣」も岩倉に示しておいた。あとは逸る薩長の頭を冷やして、徳川との武力衝突を回避する策を考えればいい。西郷、大久保にしても桂小五郎にしても、貸しはたっぷりとある。「なんとかなるぜよ」と、竜馬には多少の余裕があったに違いない。その隙を見回組は見逃さなかった。
 坂本竜馬直柔は天に召された。嵐のような幕末の風雲に突如として現われ、自分が成すべきことをさっとと片付け、彼岸へと帰っていった。日本はこの茫洋たる若者に救われた。
 11月15日になるといつも思うのである。この世には奇跡というものがあるんだなぁということを……。