市民・国民を守るために

 今朝は久しぶりに午前中の予定がなく、だからというわけでもないのだが、午前9時半過ぎまで寝てしまった。午後からはまた野暮な会合があって、義理でそこに出席をしなければならない。最初はね、隣町(辺鄙なところ)で会議を開くということで、移動手段を自転車と公共交通機関しか持たないワルシャワは、「残念ですね~。自転車では遠すぎて行かれないし、鉄道が通っていないので電車でというわけにもいかない。参加したいのはやまやまなんですが、今回は辞めておき・・・」とそこまで言いかけたら、先輩の委員が「ワシャさん、僕が迎えに行くから一緒に行こう」と提案したてくる。

 そこまで言われては、断ることもできない。「そうですか?先輩が迎えに来ていただける?では・・・」ということになった。はっきり言って有難迷惑なんですけど(怒)。

 とはいえ、それは午後の話。午前中は久々の自由時間である。コーヒーを煎れて(もちろん自分でね)、それを飲みながら、「おちょやん」の週間総集編を観て、来週ある読書会の課題図書を読みつつ、i-Padでニュースを検索している。器用でしょ(笑)。

 およよ、こんなニュースがトップに並んでいる。

《包丁男「凶器を捨てろ」の警告無視し2m先まで接近…警官発砲、胸に当たり死亡》

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6379819

《菅政権、「敵基地」議論なき装備増強 国産ミサイル長射程化(深層探訪)》

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6379827

 見つけた瞬間に「今日の日記はこれにしよう」と思い立った!「おちょやん」のほうでも片岡松十郎という歌舞伎役者が登場してくるんだが、これがなかなかいい役者っぷりで、面差しがいい。化粧をほどこすと、どことなく海老蔵を思わせる顔立ち、素顔は大麻の伊勢谷くんに年齢を重ねたような面差しで、ブ男の多い歌舞伎界においては真の二枚目として通用する。「この話でもいいか」とも思ったんだけど、こっちのほうがよさそうだったのでこっちにします。

 まず包丁男なんだけど、家族から「兄が包丁を持っている」と110番通報があって、警官3人が現場に駆けつけたわけだ。玄関先で男(37)と遭遇し、包丁を振りかざして近づいてきたため、40歳代の男性警部補が拳銃で1発発砲し、男の胸に当たった。男は約2時間後に搬送先の病院で死亡が確認された・・・という事件である。

 日本の警察は世界の中でももっとも銃を発砲しない警察である。どれほど自分が危機に陥ろうと「まだ撃ってはいけない」と自制する妙な警官なのだ。

 アメリカのポリスなら、少しでも不審な動きをすれば遠慮なく撃ってくる。後進国の警官など、賄賂を要求し断っただけで発砲するだろう。記事を引く。

《県警の発表によると、警部補ら署員3人はそれぞれ拳銃を構えて「凶器を捨てろ」と何度も警告したが、男が何かを言いながら包丁を振り回し、約2メートルの距離まで近づいてきたため、警部補が発砲したという。包丁は刃渡り約20センチ。男の家族は、男が精神的に不安定だったと話しているという。》

 日本の警官なら、何度も「凶器を捨てろ」と狂気を捨てない男に警告したことは間違いない。それに民家の玄関である。それほど広くはあるまい。ワシャの家でも一間(180㎝)ほどの玄関で、ドアはその半分くらいで、そのあたりに警官が3人立ってピストルを構えるなどというスペースはない。おそらく先頭に警部補がいて、その背後から部下がドア越しにピストルを構えている・・・といった状況であろう。

 そこに狂った男が刃渡り20㎝の包丁を振り回して迫って来てるんですよ。腕が90㎝、それに刃渡りが20㎝だと、男との距離は2mかもしれないけれど、狂気の凶器は90㎝のところまで迫っている。これで発砲しなければ、それは警官の自殺だ。

 お役所の中でもっともお役所候のお役所が警察なのだが、新潟県警は「現時点では適正な(拳銃の)使用だったと考えている」と説明しているんだとさ。おいおい、ここで拳銃をしようしなければ警部補は刺されているぞ。世間様も、警部補の拳銃発射を褒めこそすれ、批判するところなど1㎜もねえだろ~。

 

 で、《菅政権、「敵基地」議論なき装備増強 国産ミサイル長射程化(深層探訪)》である。

 この話には、「狂気の凶器男」射殺がとても参考になる。「狂気の凶器男」を、「某国」に喩えよう。某国の核弾頭を搭載できるミサイルの射程は日本国をすべて網羅している。西三河だってピンポイントで狙える精度もある。まぁ田舎を攻撃してもあまり効果はないとは思うけれど、日本列島に住むすべての人に刃渡り20㎝の包丁が突き付けられている。いや、爆心地に近ければ、包丁より楽に死ねるかもしれないが、少し離れると地獄のような苦しみを味わうことになる。

 今、日本は狂気の包丁男3人に囲まれて、丸腰で立っている警官のようなものだ。包丁男が振り回している包丁は、今のところ、空を切っているが、もう顔の横を掠めてはいる。

 この状況で、丸腰で「遺憾の意」を唱え続けていて、警官は市民を守れるのだろうか。

 安倍前首相は言っている。

北朝鮮や中国がミサイル技術を大きく向上させていることを念頭に、「受け身」のミサイル防衛にだけこだわっていてはいずれ対処困難になると判断。「この際『打撃力』に踏み込んで抑止を図るべきだ」》

 これに対して公明党は、「選挙前に議論はできない」と検討に一貫して否定的なんだそうな。

 おめーら、国民の命よりも選挙かよ(呆)。

 

 もう一度、新潟の刃物男への警官の発砲について考えてみてください。これは、武力を行使できない軟弱な国家と、他国に対して武力で威嚇してくる国家という国際情勢と、実は同じことなんですよね。

 共産党の田村智子政策委員長は「専守防衛をかなぐり捨てるものだ」と猛反発しているようだが、嗚呼、国売ることなかれ。オバサン、「専守防衛」なんてお花畑の夢のまた夢なんだって。こいつら本当に国を売っている。

 某国が日本に向かって発射した核ミサイルを、着弾する前に撃ち落とすって、あーた、乱射された機関銃の弾を、「全部、空中で撃ち落とせ」というほど難しいものなんですよ。そりゃいくつかのミサイルは迎撃できるかもしれないが、ならず者は何百発ものミサイルを保有している。その内の1発が名古屋に落ちてごらんなさいよ。軽く20万人は死に、何百万人もの人間が負傷し、後遺症を抱えて苦しむことになる。

専守防衛」なんていう夢物語をかなぐり捨てなければ、新潟の民家で家族と3人の警官は刺殺されていたかもしれない。

 よく撃った。新潟県警の警部補殿。

困ったときのニャンコ先生

 12月の大きな会議がようやく終了する。今回は出番も多く、表でも裏方としても走り回った。

 今日がその最終日。どうやら最後のすったもんだがありそうで、ワシャもちょいと早めに出勤するように先輩の役員から支持されている。

 てなことで、10.5度の書庫には長くいられない。ストーブを入れたところで、あったまる前に出勤時間が来てしまう。ということで(笑)。

f:id:warusyawa:20201218074246j:plain


 

 

シンドラーの時代

 1993年の映画「シンドラーのリスト

https://eiga.com/movie/45728/

が、昨日BSで放映されていた。日中だったので録画をして観たんだけど、それこそどうだろう。20年ぶりだった。そして歳月が経っても名作は名作だった。スピルバーグの珠玉の作品は27年の時が過ぎても、まったく色褪せていない。この作品、観た方はご存じだと思うが、狩り立てられていくユダヤ人が裸にされるシーンがある。ここがまったく無修正で、陰部、陰毛、性器がそのまま映し出されていく。昨日のNHKBSでも同様で、男たちの萎えた性器、女たちの乳房、陰毛など遠慮なく目の当たりにされている。映画はラストの現在の風景以外はすべてモノクロ(一人の少女を除き)で、しかしそれが実に美しい。アカデミー作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、作曲賞、美術監督・装置賞、編集賞と総なめとなった。

 

 おっと、今朝は映画の話をしたいのではない。「民族の迫害」について語りたいのである。ユダヤ人の悲惨さは、まさに「シンドラーのリスト」の中に凝縮されているわけだが、おそらく現実は映画では描き切れないほど悲惨で残酷であったろう。

 日本という極東の父祖のおかげで平和な島国に生きるワシャらにはまったく想像だにできない地獄がそこにはある。先の大戦で、日本人は300万の同朋を失った。空襲という卑劣極まりない殺戮方法で命を失った国民も多かったが、戦闘の中で死んでいった兵士も数多存在する。

 しかし、強制収容所ユダヤ人の死は、少なくとも家族を助けるために命をはった3月10日の東京市民や、零戦に搭乗して敵艦に突っ込んでいく航空兵の「俺の死が父母、妻、子供、国民のためになるんだ」という一縷の希望すら許されない絶望の屠殺と言っていい。人間の尊厳をここまで貶めたナチスドイツのユダヤ人虐殺を人類は許すことはないだろう。

 

 実は80年前のホロコーストの話もメインではない。ここからが本題なのだが、「シンドラーのリスト」を観て、ユダヤ人の悲惨な時代に憤るのもいいし、それを助けたシンドラーというドイツ人商人に感動するのもいい。

 それはそれとして、現在もホロコーストが続いていることだけは忘れないでほしい。

 中国共産党ウイグルで、チベットで、内モンゴルで、実行している民族浄化である。毛沢東という狂気の独裁者が2000万人の同朋を殺戮した。その延長上で、今、いくつもの民族を抹殺しようとしている。いいですか、ヒトラーナチスとは桁の違う人間を抹殺し続ける独裁党が、支那共産党というおぞましい集団なのである。

 ヒトラーですら、人間の臓器を生きたまま取り出して売買するなどということはしなかった。それを昂然とやっている集団が中国共産党なのである。「違う」というなら、国際機関の査察でもなんでも入れればいい。世界の報道機関にウイグルの収容所を取材させればいい。

 潔白を証明してから偉そうなことを言え。

 

 シンドラーが直面した人類の汚点は、支那大陸でその黒々とした染みを広げつつ、さらに残酷で、悲惨なものに深化している。人類はこの大汚点をなんとかしなければならないが、唯一、アメリカのシンドラーに成り得たトランプ大統領は、支那の金にどっぷりと浸かったボケ老人に取って代わられようとしている。現在のシンドラーのリストを誰が作成し、消されようとしている民族を誰が救えるというのか?

 我が日本国は、残念ながら首相が親中派の巨魁とルールを破って主席を共にしているようでは、とてもじゃないがウイグルチベット内モンゴル、そして香港の周庭さんたちをすくい出す根性もなければ気力もあるまい(泣)。

 

 もうひとつだけ言っておく。第二次世界大戦中に大日本帝国は、同盟国のドイツに逆らって国策としてユダヤ人を救出している。杉原千畝ばかりではないのだ。国を挙げてユダヤ人を助けようとしたのである。

 そんな国が、なんで大虐殺を未だにやっている独裁党に「南京で日本人はひどいことをしたあるよ!」と嘯かれなければならないのか?

 まったく逆だろう。菅首相、寝ているんじゃないぞ!

井戸の茶碗と武士道

井戸の茶碗」という噺は、善人ばかりが出てくる清々しい落語である。主人公は正直清兵衛とあだなされるくず屋で、そこに落剝はしているが武士の鑑のような千代田卜斎と、細川家の家臣で、爽やかな若侍の高木作左衛門が絡んでくる。

 たまたま、清兵衛が卜斎から200文の古びた仏像を買い、それを作左衛門に売った。作左衛門が仏像を洗っていると、その体内から50両が出てきたことから騒動が巻き起こる。

 作左衛門は「仏像は買ったが、中の50両まで買った覚えはない。売られた方に返すのが当然」と、清兵衛に返却を依頼する。

 ところが卜斎は「仏像の中に50両があったとしても、すでに200文で売ったものである。所有権は買われた方にある」と断固として受け取らない。

 すったもんだの挙句、20両、20両を卜斎と作左衛門が取り、10両を清兵衛がもらうことで治まった。ただし、20両を「ただ貰うわけにはいかない」ということで、卜斎が使っている小汚い茶碗を作左衛門に譲る。

 ところがところが、その小汚い茶碗が「青井戸」という名品で、細川侯が300両でご購入と相成ったから、またまた騒動が大きくなる。

 

 噺はまだまだ続くのだが、それはさておき卜斎と作左衛門という武士のことである。科学者の武田邦彦さんがこんな説を唱えていた。「士農工商」という身分制度は下から金がついて回り、一番上の「士」が金から一番縁遠かったというのである。必ずしもそうではないと思うが、少なくとも「井戸の茶碗」に出てくる卜斎は極貧である。若侍の作左衛門にしてもそれほど裕福ではあるまい。しかし、金への執着ということでいえば、これほど金から距離を置く人間も珍しい。ゼニカネのためなら国さえ売ろうという商人や政治家が跋扈する現代で考えれば、ありえないような善人ということになるだろう。

 しかし、江戸期、いや明治の時代でも、卜斎、作左衛門のような武士は数多存在した。そもそもゼニカネより重い命を羽毛より軽いものとして、己の名誉のためにさっさと捨ててしまう価値観をもっていたのだ。

 幕末の頃、高杉晋作が将軍暗殺の計画を練っていた。とはいえどちらかというと仲間の結束を促すためのスローガンのようなもので、高杉に実行する腹はなかったと見ている。それが高杉と同様に討幕を是とする侍の中に噂として伝わって、一人の老武士が「老い先短いこの身を将軍暗殺という大事業に賭けてみよう」と思い立ち、高杉が酒盛りをしている宿舎の門を叩いた。

 しかし、そもそも仲間を鼓舞するための発言なので、実行する気はそもそもなく、だから体よく追い返すために、「申し訳ないがこの暗殺計画は長州藩の同志でやる。だから貴殿の申し出は受けられない」と断ってしまった。

 老武士、「相分かった」と引き下がり、「己の希望が叶えられないのなら」と、玄関先で立ち腹を切って死んだ。

 幕末の動乱期だからというエピソードではない。日本全国で、帳簿の間違いや、その他のささいな疑念を晴らすために、武士は、誇りと引き換えにいとも簡単に命を捨てた。

 

 志の輔の演じる2人の武士は、どの落語家の演った卜斎、作左衛門よりも頑固な武士(もののふ)だった。これほどの侍を見たことがない。しかし、観客は「きっとあの時代には卜斎や作左衛門はいたんだろう」と、自らの不甲斐なさと比較して、その生きざまに感動するのであろう。少なくともワシャはそうである。

 あ~おもしろかった。

独演会報告の予告

 昨日、「立川志の輔独演会」に行ってきた。

https://www.toyohashi-at.jp/event/performance.php?id=838

 当初は、5月15日に開催の予定だったが、クソ武漢肺炎のせいで延期となった。それが昨日、ほぼ穂の国とよはし芸術劇場の主ホールが満席で実施された。志の輔師匠も満席がよほどうれしかったのだろう。終演時間を30分も超えての熱演であった。

 まず、前座として志の輔の8番弟子の志の大が「寄合酒」でご機嫌をうかがう。その後を二つ目の志の麿が「初天神」。二人とも志の輔の弟子ですから、それなりに上手い。まぁ今後に期待ができるのではないか。

 そして志の輔が登場する。噺は「猿後家」である。仲入りの後、津軽三味線の山中信人師匠がすごかった。

http://nobu483-1000.sakura.ne.jp/

 ワシャはもともと三味線の揺らぐ音が好きなのだが、この人の津軽三味線の迫力の揺らぎと言ったら・・・。真剣にCDが欲しくなった。

 そしてトリが志の輔の「井戸の茶碗」、これがメチャメチャおもしろい。

 

 今日もちょいと朝から仕事が立て込んでいて、独演会の詳細はまた明日にでも。すいませ~ん。行ってきま~す!

議員の質

 元衆議院議員の横粂弁護士がおもしろいことを言っている。

横粂勝仁弁護士が選挙に出てほしい有名人告白 〝国民のリーダー足りうる〟3人とは》

https://news.yahoo.co.jp/articles/db1df13b67cb76c5801c67cc982217196322d2e1

「国民のリーダー足りうる3人」は、大したことはなかった。嵐の櫻井翔、DAIGO、武井壮を挙げている。ううむ、政治家なんか誰でもできるといえばそうなんだけど、櫻井翔やDAIGOが政治に目覚めるかどうか。武井壮はもう少し実力を見ないと現時点ではなんとも言えない。とはいえだ、今井絵里子でも政務官ができるんだから、上記の3人なら楽勝か。

 そのことよりももっとおもしろいことを言っている。

《また、国会には年齢を重ねたオジサン議員が多いと指摘した上で若手の処世術を語る。「若手はわざと目立たない。新人議員で脚光を浴びるのは永田町で生きる上で得策ではありません。やっかみ的なものだったりマイナス効果的なものがある。世の中わかっている20代30代議員はおとなしくしてた方がいいってことで目立ってないだけ」》

 そういうことなのだ。歯ぐきの臭いそうなジジイにならないと政界ではモノが言えない。だから頭のいい若手はじっとして目立たない。目立てば、年齢と期数しか誇るもののない無能なジジイに、出る杭はよってたかってボコボコに打たれる。あっという間に潰されてしまう。とにかく長老たちに先輩たちに「ういやつういやつ」と、思し召しを良くしておかないとダメなんですな。

 

 こんなニュースもあった。

《吉川、西川両氏の国会招致要求 立民など野党》

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODE091DD0Z01C20A2000000/

立憲民主党など野党の国会対策委員長らは9日、国会内で会談した。鶏卵生産大手からの現金受領疑惑を巡り、自民党吉川貴盛元農相と西川公也元農相の国会招致を要求すると確かめた。》

『国会便覧』によれば、吉川元農相、西川元農相ともに二階派なんですね(笑)。さらに、ジャーナリストの須田慎一郎さんの情報によれば両者とも二階派の事務総長を務めていたという経歴がある。東京地検特捜部が動いている。吉川元農相は、さっさと不整脈を起こして病院にトンズラしてしまったし、なにかと不祥事の多い内閣官房参与の西川元農相は、128日にこっちもとっとと辞任してしまった。はてさて、この後がどうなりますことやら。東京地検特捜部、本丸までたどり着くことができるか、ここが見ものである。

 もう二階さんは退場でいいのではないか?二階さんくらいの仕事なら、おとなしくしている20代30代の若手議員でもできますって。安心してトンズラでも辞任でもいいからフェイドアウトしてくだされ。

 

《国会議員の議員会館で違法喫煙続く 専用室使わず自室で》

https://news.yahoo.co.jp/articles/e4390bbf64f39ad11c6403bc1693d5a9d70f8b25

 地方の議会、ワシャの知っているところでも、すでに本庁舎、分庁舎を含めてすべての敷地内での喫煙が禁止されている。職員も市議会議員もかなりとおいところにある喫煙所に休憩時間中に足を運んでいる。しかし、国会議員がこの有り様なのである。こんなことすら守れないとは(トホホ)。

日本マンガ全史

 たまたま立ち寄った駅前の本屋さんで、澤村修治『日本マンガ全史』(平凡社新書)を購入した。これがなかなか良かった。読み物としてというより、資料として優れている。まさに日本マンガの歴史が網羅され、マンガとともに過ごしてきた人生を振り返ることができた。

 ちょっと確認してみたんですよ。

 昭和の戦前・戦中は、後年、知識としては知っていたり読んだりしたが、タイムリーに読めるわけもなかった。当たり前だけどね。

 戦後に入って、いわゆるトキワ荘に集った漫画家たちの作品にも間に合っていない。まだワシャは生まれてもいなかったもんね。その後、トキワ荘の中から、いろいろな才能が芽吹き、1963年代に「鉄腕アトム」がテレビアニメになって「マンガ」に気がついたようなことであった。それまでは祖父と一緒に大相撲を観ていたのだった(笑)。

 なにしろ、ワシャの家には「漫画」「マンガ」の類はまったくなく、そういったものは教育熱心だった両親の手によって排除されていた。辛うじて、幼稚園の同級生の家に遊びに行って、「鉄腕アトム」やら「鉄人28号」のマンガを見せてもらうくらいのことだった。この時期、マンガというものは教育の敵のような扱いを受けていて、両親ともに堅物教師だったワシャにはマンガを買ってもらえるという幸運は訪れなかった。

 それでもね、親戚の伯父さんとかが、「少年マガジン」や「少年サンデー」をたま~に買ってくれて、でも週刊誌は連載が多かったでしょ。だから話がブツ切れであんまり面白かったことはなかったなぁ。小学校に入ってから、街中の貸本屋に顔を出すようになって、そこでコミックをこっそりと借りて読み始めて、マンガの魅力に開眼したものである。だから、マンガに関しては、やや晩熟で、けしてしっかりとマンガを読み込んだ子供時代ではなかった。

 それでも、父親が通常の本を購入することには大らかだったので、駅前の本屋さんは、父親の学校にも日常的に営業活動をしていて、読書家だった父親は、ツケで本を届けてもらっていた。だから、ワシャも本屋のカウンターに欲しい本を持ち込んで「お願いしまシュ」と言うと、「ああ、ワルシャワ先生のところのボクね、付けておくのね」と、あっさりと本が購入できた。ただし、マンガを買うことは禁止されていたので、そこは自分の小遣いで買わざるをえなかった。しかし、110円とかの小遣いレベルでは、やっぱり駄菓子屋で舌の色が変わるような菓子を食いたいので、なかなかマンガは買えなかった。

 ところが、1965年に、石森章太郎が『新入門百科 マンガ家入門』(秋田書店)を刊行した。これは、父親から「くれぐれも息子にマンガを売らないで欲しい」と言われていた本屋のオジサンも、この本を差し出すワシャの純真な目を見て「ニヤリ」と笑ったものである。そして伝票に「新入門百科 320円」と記載してくれ、「マンガ家入門」のところは省いてくれた。

 おかげでワシャは、マンガというものに正面から触れることができて、小学校4年の時には、漫画家になることを決意し、石森先生の「東日本漫画研究会」の向うを張って、「中京日本漫画研究会」というのを立ち上げようとした。「中部日本」ではなく「中京日本」というのが素人っぽくてかわいいやね。

 しかし、ガキのやることなので、それほど長く続かず、会員もワシャとワシャの友達が数人程度で、結局、会としてはなんの実績も残さずに雲散霧消した。

 でもね、ワシャのマンガに対する思いは募り、マンガらしきものを毎日毎日書き続けた。

 ちょうどタイムリーには永井豪の『ハレンチ学園』などが登場し、ちょっとエッチな話に小学校の高学年になっていたワシャは夢中になったものである。十兵衛(主人公の女の子)のヌードを描き写したりしたものが、母親に見つかって両親を悩ませたりしたものだったが、ワシャ的には純粋に絵を描きたかっただけのことで、まだまだ色気づくのは何年も後のことであった。

『日本マンガ全史』を繰っていくと、188ページくらいまでは、あまり馴染みのないマンガが多いが、ここらあたりから「火の鳥」「バンパイヤ」「ルパン三世」「子連れ狼」「じゃりんこチエ」なんかが紹介されてくる。しかし、やはり読んでいないマンガのほうが多いなぁ。

 まじめに読んだマンガとしては、大友克洋童夢」「AKIRA」、さいとうたかを「ゴルゴ13」、大和和紀あさきゆめみし」、高橋留美子うる星やつら」、横山光輝「三国志」江口寿史「ストップ!!ひばりくん!」、北条司CATSEYE」、永井豪デビルマン」、武論尊原哲夫北斗の拳」、岩明均寄生獣」、漆原友紀蟲師」、浦沢直樹「PLWTO」、大場つぐみ小畑健「デス・ノート」、浅田次郎ながやす巧壬生義士伝」、奥浩哉「GANTZ」、緑川ゆき夏目友人帳」くらい。

 せいぜい、この作家たちの他の作品をつまみ読みするくらいで、けっして真面目なマンガ読みではなかったようだ。『日本マンガ全史』には、その他にもたくさんのマンガがラインナップされてあるけれど、こうやって記載してみると、ホント読んでないっす。

 少女マンガ系はほぼ全滅で、例えば「夏目友人帳」でも、当初は、主人公の夏目と、脇役の西村や北本などがまったく区別がつかなかったものである。女子にしても夏目レイコと、タキや妖(あやかし)の女たちとの見分けができない。重症だったのだ。ようやく最近、ニャンコ先生の尽力(?)により、なんとなく顔の違いが判るようになってきたくらいです。

 じつはこの本で確認するまでは「ワシャの人生はマンガ漬けだったかも」と思っていたのだが、そんなこともないらしくて、良かった善かった。

 でもね、今は「ニャンコ先生漬け」ならぬ「ニャンコ先生憑け」にはなっているのだった。