今朝の朝日新聞1面。
《「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き》
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180324-00000072-asahi-soci
確かに認知症の人が「徘徊」という呼び方を止めてほしいと言うなら、それもありだろう。
「徘徊」というと、なにか善からぬものがうろついている……といったニュアンスが確かにある。でもね、語意を辿っていくと支那の古典の『荀子』に行き着く。そこでは「徘徊」というのはそれほど悪い意味を持っていない。『荀子』「礼論篇」にこうある。
《今かの大鳥獣はもしその群匹を失亡して月を越え時をこゆれば則ち必ず反巡し、故郷を過ぐれば則ち必ず徘徊し》
ここに「徘徊」が出てきますね。続けます。
《徘徊し鳴号し擲蠋(てきちょく)し踟蹰(ちちゅう)してしかる後に能くこれを去る》
大雑把に訳すと、「鳥獣でも、その仲間から離れて1カ月も1シーズンも経過すると、必ずもとの道を引き返し、もとの古巣を通るときには、きっとぐるぐると旋回して鳴き叫びためらって、その上で立ち去っていくものだ」ということで、別れに際して、気持ちを残した行動を「徘徊」としている。「徘」の字は「俳」の字を当ててもいいらしい。「俳」ならば「俳優」とか「俳句」とかポジティブな印象が強いので、「俳徊」と言い換えてもいいじゃないか。音はそのまま「ハイカイ」であるし、字面は俳優が散歩するみたいで格好いい。散歩しながら俳句を考えているみたいでもある。
朝日新聞が言うような「外出」では、まったく意味がずれてしまうし、「ひとり歩き」ってそもそも認知症患者だけではない広い意味がある。「いいあるき」なんていう案もあるようだが、それでは何を言っているのかまったく不明だ。
なんでもかんでもクレームがついたから言いかえるという方向は見直したほうがいい。