ワシャは京都・蓮華法院の千手観音様たちが好きで、ちょくちょくお顔を拝見しに伺っている。千体を超える仏様に見下ろされていると、気持ちが鎮まるというか、なにしろ素敵な空間だ。あの仏様たちが国宝になった。うれしや。
《三十三間堂の千手観音、国宝に》
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180309-00050095-yom-ent
三十三間堂そのものは国宝である。中央に鎮座まします中尊坐像、風神、雷神、二十八部衆も国宝。そして千体の立像、蓮華法院は国宝だらけになったのだ。また行きたいなぁ〜。
千手観音様は、千手千眼を持っておられるからそう呼ばれている。実際には胸の前で合掌する真手(しんしゅ)と腹の前で宝珠を持つ手があり、左右に三十八の手がある。それぞれの手は一本が25の機能を持っているので、それでざっと千手となる。だからこの仏様は広大な救済力を持っているわけですな。その観音が千もおられるのだから、なにがなんでも救済されるというありがた〜い仏様なのだった。
それにしては千手観音様の救済は、この凡夫にまではなかなか手が回らないようだ。
まさに阿修羅のごとく戦ってはいるのだが、苦戦を強いられている。流れに身を任せられれば楽なのだろうが、どうしても竿をさしてしまう。それは最初は自分のためだったんだが、5年も過ぎると「自分のためよりもあとに続く者たちのために」と経年変化してきた。まさに坂村真民の「あとからくる者のために」
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20130421/1366517310
の実践である。おこがましいようだが、道は造っておかないといけない。
話が逸れた。もとにもどす。
千手観音のことである。正式には「千手千眼観世音菩薩」であり、菩薩の内のおひとかたである。「千手千眼」は「千の手と千の目を持っている」ことで、どんな救済でも可能であるとする能力をあらわし、「観世音」は「世間の音声を観ずるもの」ということで、世間の人びとから沸き起こる苦厄救済を求める声を観てとって救済するのである。「菩薩」は「菩提薩埵(ぼだいさった)」で、これは「悟りを求めて精進努力する者」という意味で、悟った者「如来」になる直前のありがたいおかたである。
ありがた〜いかたがたが、ありがたい国宝になった。こんな目出度いことはない。苦悩する凡夫もついでに救っていただけるとさらにありがたい。
(メモ)
月刊「武道」2014.1月号
細川景一師「千手観音はたったの一手でも心を奪われたら他の九百九十九手はその瞬間、あてなきが如きも同然であり、一所に止めない明鏡のような境地にいて初めて、千手ことごとく必要に応じて動作し役立つと言われています」