菜の花忌

 司馬遼太郎が逝って21年。
「固有の日本人がしっかりしていないと、泥沼になる。炉心になる精神がしっかりしていないと、溶けてしまう。いま日本はだらしない。これは溶けます」
「唯一の民族遺産である恥の文化がどれほど薄れてきたか……」
「近頃、頼りなさそうな、かげろうのような青年が増えてきたような気がします。はたして立派な市民として将来やっていけるだろうか。日本の電圧が低下しているのでしょうか」
 司馬さんが同時代人を憂いていたのは四半世紀も前のことである。あれから日本人は少しは進化しているのだろうか。あるいは退化してしまったのか。
 おそらくは両面ともあると思う。支那中国や朝鮮半島への幻想は激減し、現実を見るようにはなってきた。司馬さんが警告を発していた頃、多くの日本人の脳内には東アジア産のお花畑が咲いていた。それが今は沖縄に出没するごく限定された左筋の人ばかりになってきたことはめでたい。朝日新聞に代表される報道の嘘、有名人による発言の嘘なども、発信する側の多様化にともなってすぐに化けの皮がはがれるようになってきた。メディアの透明性という観点から言えば進化しているのだろう。
 恥の文化の劣化は著しい。些細なミスをあげつらい店員に土下座をさせて喜んでいるバカな客。日が暮れてから荷物を届けてくれる宅配便のドライバーにつっけんどんな対応しかできないわがままな人。金を払えば王様とでも思っているのだろうか。社会は人と人とが支え合って成立しているということを忘れてしまったバカが多くないか(反省の意味も込めて)。
 つまらない話だとは思うが、こういったチリが積もって日本の電圧を下げているのである。ここは口うるさいオジサンが頑張らないといけないなぁ……と自覚するのだった。
 富士通総研の柯隆(かりゅう)主席研究員がこんなことを言っている。
「反右翼闘争から文革にかけて、家族同士の密告が奨励され、知識人を徹底的につるしあげた。信頼関係をずたずたにして人間不信が社会に広がった。この悲劇は半世紀以上が立っても中国社会に影を落としている」
 支那中国の利己主義の蔓延した現状はご案内のとおりである。いったん壊したものを復元するのにはおそらく何倍もの労力と時間がかかる。日本人も笑ってばかりはいられない。ホテルのテレビを持ち出す、ディズニーランドの芝生でウンコをする、そんな日本人も確実に増えている。確実に毅然とした社会がじわじわとだが溶けはじめている。
 もう一度、司馬さんの言を噛みしめよう。ほらほら〜「司馬遼太郎はもう古い」などと言わずに。今秋の読書会の課題図書も司馬遼太郎にしようかな(笑)。