自然に生きよ

 連休初日から体調を崩していた。よく寝て、ずっと引き籠っていたらなんとか元気を取り戻した。
 それでもじっとしていられないので、やっぱり書庫の掃除を始める。今回は3つの棚を占めている災害関連の本を移動して、空いたスペースに、あふれてきた仏教、儒教系の書籍を整理しようと考えた。昨日、昼過ぎから始めたのだけれど、これがなかなか奥が深い。それに悪い癖で、どうしても移動中に本を読んでしまう。これでは作業はなかなか進みまへん(泣)。
『新釈漢文大系』(明治書院)を移している時だった。古い本なので書籍独特の臭みが出ていた。少し風を通したほうがいいと思って箱から出す。そうすると付箋が打ってあって、そこをついつい開いてしまう。漢文や読み下し分は省く。通釈である。

 人は一たび形を受けて生まれてきたならば、生命を害うことなく、自然に死ぬのを待つのだ。それを、周囲の物に逆らいそれと争うようでは、一生は駆け足で過ぎ去り、その足を止めることはできまい。悲しいことではあるまいか。生涯、心を痛めながら、その効果が現われず、くたくたに疲れても帰るところが見つからない。哀れではあるまいか。

 荘子は言う。「亡ばずして以て尽くるを待て」、つまり「なにごとも自然に任せよ」「常に自然に従え」と繰り返す。
 日々を齷齪(あくせく)と生きているワシャには痛い言葉だった。生きるのに「あれも」「これも」「それも」と焦るあまり、「どれも」手からこぼれ落としてしまう。そもそも手すら届かない現実に気がつかない。愚者である。
 ああ、そんなことを考え出すとまた掃除が進まない。ワシャは急ぎ本を閉じて、次の作業に取り掛かるのだった。

 次に運んだのは仏教系の本だった。これも箱入りで、風に当てないといけない。『坂村真民全詩集』(大東出版社)の第3巻でまた引っ掛かってしまった。そこに「岐路に立つと」という詩があった。

岐路に立つと
いつもきこえてくる
声がある
その声に導かれて
わたしは進んできた
このたびの決心も
その声に従ってきめた
覚悟した以上
大詩霊さまに
すべて任せてゆこう
残された僅かの生を
後悔しないものにしてゆこう

 ホントに偶然なんですよ。たまたま引っ掛かった書籍で似たような箴言に当たった。「自然に生きよ」ということにである。もちろんどちらにもワシャ自身が付箋を打っている。だから何年か前にも「自然に生きたい」と思っていたに違いなく、今、掃除の最中にその付箋に触れてみれば、何年か前の若い自分からのメッセージのような気がしないでもない。

 いかんいかん。そんなことばっかり考えているので掃除はちっとも進まない。でもいいか、この遅々とした掃除がストレス解消になっているのかも知れないから。