ところは越後親不知の海岸に近い山中である。地名でいうと上路(あげろ)になる。その険路を遊女と従者が善光寺に向かっている。そんなシーンを世阿弥が能狂言にした。物語をざっと述べる。「山姥」とは、山に棲む鬼女のことではあるが、それは山塊の化身であったり、あるいは自然そのものの精霊なのではという解釈ができる。昔ばなしでは、旅人を取って食う怖い化け物として描かれているが、この能ではそうはなっていないのである。
京に「山姥」のことを曲舞にして謡う有名な遊女がいた。それが従者をつれて旅をしている。深山にさしかかると、日はまだ高いのに突然あたりが暗くなる。困っていると、里の者と称する女が現われる。能では、だいたいここで現われるものが、神霊妖怪の類である。もちろんこの里の女も例外ではない。女は、「それではわが庵にいらっしゃい」と一行を誘う。そして女はいなくなり、まもなく髪をふり乱した鬼女が現われて、仏法を説き、春夏秋冬の大自然をたたえながら、山巡りのさまを舞う。
大団円の「春は梢に 咲くかと待ちし 花を尋ねて山巡り 秋はさやけき 影を尋ねて 月見るかたにと山巡り 冬は冴えゆく時雨の雲の 雪を誘いて山巡り」はテンポも良くて、越後の黒姫の山々を、精霊が渡っていくのがまざまざと見える。そして春夏秋冬の山の風景も舞台の上に出現するのだった。
能はおもしろい。シテ方、ワキ方の舞も見どころ、囃子方の笛太鼓も聴きどころ。物語も、予習をしていけば、いろいろな伏線が張られているのでサスペンス映画のようだ。名人にかかると能面も表情豊かで楽しいし、衣装も華麗で、小道具は極限まで簡素化されていて、省略の美学とでも言おうか。とにかく興味が尽きないのである。
昨日、名古屋宝生流の能を観に行ってきた。その番組が「山姥」である。他に狂言の「横座」も組まれていて、これは牛が出てくるのだけれど、狂言で初めて牛を見た。妙にかわいい。狂言は観客に解りやすく、だから取っつきやすい。最近は、狂言だけのイベントも組まれている。各地の狂言師たちも活動を活発に行っており、この芸能は生き残っていくだろう。
しかし能は心配である。昨日の名古屋能楽堂も630席のうち100席が埋まっていたかどうかという状態。行くたびに客が減っている。そして若い層がいない。ワシャなんか若手に入るだろう。これでは能は先細りである。
文楽は頑張っている。字幕をつけたり、事前の解説をしたりとサービス精神が旺盛になってきた。能についても事前解説を取り入れ始めた。よいことではあるが、まだ発展途上ですね。能も、登場人物の言っていることが理解でき、地謡のなにを謡っているのかが見えれば、ずいぶん解りやすくなると思う。目付柱に字幕を入れればいいのに。
なにしろ日本の伝統文化を消してはいけない。