ご利益

 知人から聞いた話。
 知人は登山が趣味である。登山といっても、厳冬の剣とか穂高を目指すわけではない。季節のいい時期に、登りやすい山を、トレッキングのような気軽さで頂上を目指す。そんなことなのでバリエーションは、愛知県内の数百メートルという山から3000m級の山までと幅が広い。
 トレーニングに使うのは、家の近所にある猿投山だそうな。豊田市瀬戸市の境にある標高629mの山というより小高い丘に近い。この山裾に猿投神社がある。山腹には猿投神社の東宮と西宮があって、お参りも兼ねて100回ほど登ったと言っていた。

 昨年の秋のことである。たまには高い山にも登って見ようと思い立った。決行日は9月27日、その時期に頂上付近が紅葉の見ごろになる御嶽山を久々に登ろうと計画を進めた。
 その前日の夜中である。知人は突然の歯痛で目が覚めた。痛み止めを飲んだが、朝まで眠れなかったという。結局その日、山はあきらめて、歯科医に行くことを選択した。
 晴れた日の昼ごろである。歯科医の待合いから外を眺めてぼんやりしていた。
「歯さえ痛くならなければ、今頃、四方の山を見下ろしながら握り飯をほおばっていたなぁ」と、行けなかった山に思いを馳せる。そこに待合いのテレビからニュースが飛び込んできた。御嶽の噴火であった。
 歯はまもなく治った。しかし、歯が痛くならなければ、おそらく時間的に言って、まちがいなく知人は山頂にいたはずだ。
「きっと猿投山に百回登ったご利益や」
 と、言っていた。
「そうかなぁ?」
 と、思ったけれど、本人がそう言っているのだからそういうことにしておく。