生死

 昨日の朝日新聞「声」の欄に「尊厳死について議論を深めよう」という開業医の方からの投稿があった。要点は「平均寿命が延びている。しかし長年寝たきりだったり、意思疎通のできない高齢者も多い。生き方と死に方には、各人の考え方が反映されるべきだ。尊厳死の希望を表明するのに貢献している日本尊厳死協会の知名度は低い。尊厳死を公の制度によって認めるべき時期にきているのではないか」というような内容。
 今月の3日の日記
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20150803
に「ジョニーは戦争へ行った」について書いた。アメリカの共産党員であるドルトン・トランボが監督で、映画はコテコテの反戦映画となっている。しかし感動的だ。「感動と思想は関係ない」とは呉智英さんの言だった。
 主人公のジョニーは自ら死を選べない。手も足も顔面失って視覚聴覚嗅覚味覚を奪われた。それでも狂うことなく冷静に思考できる脳は無事だった。逆に言えばこの状況で意識がはっきりしていることは悲劇であるとも言える。
 彼は何年もの長きにわたり、闇の孤独の中に閉じ込められてきた。それを打開したのが慈愛に満ちた看護婦の登場である。彼女がジョニーの胸に「Merry Xmas」と書き、それをジョニーが理解したのだった。そのことを切っ掛けとして、ジョニーは頭部を使ってモールス信号を発し、自分の意思を外界に伝えることができるようになる。閉ざされていた外との回路が開いたのである。
 ところが軍上層部にはそのことを許容するだけの愛もリテラシーもなかった。ジョニーは再び闇の中に追放されるのだった。
 映画終了後のディスカッションの中でも、「尊厳死」「安楽死」についての議論がでたが、簡単に結論の出る話ではなかった。
 ただ呉さんが、友人の話と前置きして「胃瘻は絶対にやらないほうがいい」と言っておられた。本人の意思に関わりなく、延々とそこに縛られ続けるのである。意識が残っていればいい。思考活動ができ得るのであれば、胃瘻の意味はあるのだが……。
「死」は大きな問題だ。でも今の日本人は、全体的にですよ、リアルな「死」から大きく遠ざかっているような気がする。
「生き方」も含め「死に方」もしっかりと考えておいた方がよさそうだ。