伊勢新九郎

 ワシャは応仁の乱の後に頭角を現してきたこの漢(おとこ)が気に入っている。名前はいくつもあったようだが、そしてこれといって確定した呼び名もなかったようなのだが、とりあえず歴史にこの漢が登場してきた時の名乗りは伊勢氏であった。だが後世になると「北条早雲」という名の通りがいい。以降は早雲として進めたい。
 北条早雲はなにをした人か。元は京都で鞍を作っていた。このころに京都一円で応仁の乱が起きる。その後、文明8年(1476)に、甥の今川氏親を助けるために駿河に下向する。これが45歳のときであった。当時の日本人の平均寿命から言えば、晩年も晩年だった。
 この後、駿河東部の興国寺城を拠点にして伊豆一国を押さえ、伊豆を足掛かりにして箱根の坂を越える。早雲63歳の晩春のことである。ようやく関東平野の南西の端っこの小田原に頭を出すことができた。しかし、年齢を考えると関東平野はあまりにも広大だった。
 以後も早雲、働きに働いて、相模一国を得るのに24年をかけている。このなかには三浦党攻めに17年も費やしたりと、まことに気の長い戦をしているのだ。念願であった相模をまとめ上げたのが87歳、それを原資として子の氏綱に与えると翌年にはさっさと彼岸に逝ってしまう。
 生涯、己のことを領主、地頭とは思わず、「旅の者」と言っていた。無欲な漢(おとこ)は安寧な国を想いながら戦国騒乱の幕を切って落とた。早雲以降、官位と権威の上で惰眠をむさぼっていた武家貴族たちが没落を始める。下剋上が始まったのである。