文楽回想

 ワシャの書庫に『入江泰吉写真全集』(集英社)がある。ごぞんじ入江泰吉(いりえたいきち)の写真集で、6巻が『文楽回想』となっている。「ごぞんじ」と言われても、ご存じない方もおられるだろうから、少し解説をすると、昭和を代表する写真家で、主として奈良大和路の風景、仏像、行事などの写真を撮り続けた。奈良市には、入江泰吉の名を冠した写真美術館がある。
 一昨日、文楽公演に行ったと書いた。その余韻が残っていて、『文楽回想』を手にしたわけだ。入江泰吉はカラー写真の人という印象が強い。それは大阪空襲で白黒時代の写真がほぼ失われたからである。しかし、その中で文楽に関わる作品が辛うじて助かった。それがこの写真集ということである。名匠入江の撮影したモノクロ写真であり、戦前の文楽を活写した写真でもある。これは双方から貴重なものであり、それが重なることでさらに作品の重みを増している。
 いろいろな文楽人形の写真やら、戦前の舞台の様子とか、四ツ橋文楽座の看板など、眺めているだけでも楽しい。中には、吉田蓑助(人間国宝)の入門当時の写真なんかもあって、黒子の衣装を着ているのだが、7歳ぐらいではないだろうか。とても可愛らしいんですよ(笑)。
 また、文芸評論家の山本健吉、演出家の武智鉄二、画家の須田剋太などが寄稿しており、読み物としてもおもしろい。

 星野之宣のコミックに『妖女伝説』なる短編集がある。その中に「日高川」という作品が収められているのだが、これが文楽にまつわる話となっている。物語はこうだ。
 安彦という二枚目の人形遣いがいる。師匠の娘の清子と結婚をする運びとなっているのだが、これが「日高川」いわゆる「安珍清姫」の清姫を遣うことになる。しかし安彦はうまく遣えない。師匠は、そんな安彦にごうを煮やし、娘との結婚を許さないと言い出す。
 清姫の心を表現できない安彦は悩み続ける。文楽のことしか頭にない安彦に清子はいらだってくるのだった。そして清子は、安彦の心を奪ってしまった清姫の人形に刃を向けるのである。寸でのところで安彦が止めにはいって人形は事なきをえるが、これは嫉妬に狂う清姫の心を実地に教えようとした師匠の企みであった。
「わしかておまえたちの心をあやつるのはつらかったんやで。けどマジメいっぽうの安彦に女の恨みを教えてやるにはこうするよりしかたなかったんや」
 とは師匠の告白。
 この過酷な指導で、安彦の芸は開眼するのだが、この後に悲惨な結末が待っている。安彦が清姫を遣ったその夜、原因不明の火災によって文楽座が全焼する。焼け跡から安彦の遺体が発見されるのだが、その遺体には黒こげになった清姫の人形がからみついていた……。
 というお話。
 そういった話を踏まえて、写真集を改めで眺めると、入江さんの技術もあって、人形たちの表情の活き活きとしたことといったらありゃしない。「菅原伝授手習鑑」の千代の写真が大写しになっているのだが、深い笑みをたたえた面差しは、怖いくらいにきれいでっせ。