今、気づくこと

 土曜日の朝、阿川佐和子さんがゲストと対談をする「サワコの朝
http://www.mbs.jp/sawako/backno.shtml
という番組がある。昨日は五木寛之さんがゲストで、なかなかいい対談だった。
 この番組は、最初と最後にゲストの好きな音楽を紹介するコーナーがある。そこで五木さんの好きな音楽を流すのだが、今回は「燃える秋」という曲で、五木さんが詩を書いている。その詩に武満徹さんが曲をつけ、ハイファイセットが唄う。
http://www.youtube.com/watch?v=KW053rdZPTw
とてもいい曲だ。経年による色褪せがない。上記のURLのユーザーコメントに《それにしても、この曲に限らず70年代のポップスには、ちゃんと「うた」があるから、今、聴いても嬉しい限りです。》とあるが、ワシャもそう思う。
 この曲は、1979年に公開された同名の映画の主題歌である。たしか真野響子がヒロインで、相手は北大路欣也だった。原作は五木さんなのだが、映画としてはあまりいい出来ではない。ただ、中東のロケが美しかった記憶がある。

 対談は、阿川さんの軽妙な話術で、五木さんの深い思考の森からいろいろな言葉を引き出す。
 印象に残ったのは、五木さんは、良寛の「死ぬる時節には死ぬがよく候」を引いて、「なかなかこうはいかない。若い時から積み重ねた覚悟があって言えること」と話された。人はなかなか、死への覚悟などできるものではないことを仄めかされる。覚悟の決まらぬ凡夫にはありがたいお言葉だった。
 それから「善キ者ハ逝ク」という言葉が出てきた。調べてみると、平成10年に出た五木さんの『大河の一滴』(幻冬舎)の中に出てくる言葉だった。ほお、あれから15年も経つのか……。
 この中で、五木さんは四十代の時に弟を亡くしたことに触れ《この世にしぶとく生き残ってきた者は、すべて「善キ者」たちの死によって生きながらえている罪深き者なのだ、という気がしてならない。》と言われる。
 そうだろうか。
 逝った者の記憶は浄化されると、誰かが言っていた。記憶が浄化されれば善キ者になるのは必然だろう。五木さんは、ご自身のことをとらえて「罪深き者」と言っておられるのだが、でもやはり生き残っている者が罪深いとは思えない。生き残ることも、また辛いのだと思う。
 そんことを思いながら、それでも五木さんの本を書庫から引っ張り出してきた。小説を別としても11冊もありましたぞ。それらをあらためて読み直してみたが、ううむ、やはり五木さんはすごい。
 平成19年に出された『林住期』(幻冬舎)の中に、五木さんが50歳の頃に大学に通ったエピソードがある。
《勉強するということが、そんなにおもしろいということに、どうして早く気づかなかったのだろうと、残念に思う。しかし、それは年をとって学ぶからおもしろくてたまらないのだろう。要するに若いときにはわからないことが、たくさんあるということだ。》
 確かに……。
 40代の半ばから、東京に足しげく出かけ、セミナーに参加して勉強することが楽しくなった。
 40代で読んでいた五木さんの本も、まさに今、読みなおしてみると、当時より味わいが深いことに気づいた。このところ取り上げている「無常」についてもあちこちに解かりやすく書いてある。「生老病死」についても、ワシャのような蒙昧な輩に光の在り処を指し示していたのだ。この年になってようやく気がついた。