小学校時代の思い出

 小学校の時から群れるのが好きではなかった。まぁ変わり者だったので、いつも一人だったのだろう。でも、少しばかり出来が良かったのと、ませていたので弁が立ち、おかげで一目置かれていたのだと思う。
 
 ワシャの通った小学校は市の中心市街地にあって、児童数1200人を超えるマンモス校だった。駅周辺の人口密集地からはガラの悪い子供がたくさん通っていた。ワシャはというと、郊外の新興住宅地だったので駅周辺の連中とはあまり交流はなかった。それでも、少ないながらも新興住宅地と農村の子供たちでグループが形成されていたので、異文化交流をする必要などなかった。小学校4年まではそんなのんびりとした雰囲気だった。
 それが小学校5年になると、子供も成長するんですな。純朴だった子供も、やはり上級生の影響だろうか、悪知恵をつけ、少し小利口になってくる。
 小学校5年のクラス替えで順風なワシャの小学校生活が狂い始める。学校一のガキ大将と同じクラスになってしまったのだ。さらに悪いことにその子分数人も同じクラスに編成された。駅裏グループの揃い踏みだった。そうなればクラス内のイニシアティブはガキ大将のものになるのは必然と言っていい。
 どうでもいいけれど(笑)そのころの勢力分布を示しておく。
ガキ大将のYグループが5人。Yグループの2軍が7人。秀才グループが4人、いろいろ異論はあると思うけれど、ワシャはここに所属している。農村グループ、これは市の有力者の孫を中心としたグループで5人。それからどこにも所属しないいじられキャラが2人。こんな感じだった。
 もちろん一番押し出しの強いのは、Yのグループだ。取り巻まで入れて12人、クラスの男子の半分を握っている。しかし、学級委員会などでは、秀才グループが力を発揮する。なにせ弁が立つ。言い合いになれば、対等にモノが言えるのはYくらいで、あとの有象無象は、多分、何の議論をしているのかすら理解していなかっただろう。それに秀才グループは学級委員や生徒会の役職を持っている。それはけっこう洟垂れどもには、権威として映っていた。
 でもね、Yはなかなか強かだった。最初は秀才グループにやり込められていたのだが、途中から「民主主義」を持ち出してきた。そのルールに乗っかれば、自分の主張が通せるということに気が付いたのである。それから学級委員会は、Yの思い通りとなった。議論などそこそこにして「多数決にしよう」ということになる。もちろん男子の過半数を押さえているYの意見は通る。
 そうなると、今まで頭を押さえられていた秀才グループを引きずり降ろせということになる。一種のクーデターだった。最初の狼煙は5年の後期の学級委員選挙だった。それまで学級委員は秀才組が持ち回りでやっていた。しかし、猛烈な多数派工作をしたYが学級委員になったのである。Yが学級委員になってからクラスの雰囲気が変わった。担任は放任主義の人で、生徒の自主性に任せるタイプだった。このためによほどのことがない限り口出しをしてこない。そこにYグループはつけこんだ。いじめる標的をいじられキャラ2人から、秀才4人に替えたのだ。
4人のうち、3人はすぐに転んだ。Yと対立することで勉強に差し障りがあると判断したのである。徹底抗戦を主張するワシャに謝りながら、Yの軍門に下った。残ったのは意地っ張りで天邪鬼なワルシャワだけでんがな(泣)。
 ううむ、今、思い出してもあのころは辛かったなぁ。昨日まで友だちだった子が、Yの顔色をうかがって手の平を返すように遠ざかっていくんですね。これは勉強になりました。人というのは簡単に裏切るものなんだなぁ……と思ったものである。
その後、1年にわたるいじめグループとの戦いは壮絶で、孤軍奮闘の日々が続いた。なんとか失地回復したのは卒業間近の頃だった。

 Yへの仕返しは中学校に入ってからだったなぁ。勝つには勝ったが、そのかわり優等生だったワルシャワ少年は、劣等生になっていたのだった。

 闘うための処世術というと大げさだけど、そういったものはあの頃に身につけたような気がする。それが最近、ぬるま湯生活が長くなって、それも錆びついてしまったようじゃ。トホホホ……。