本物になる

 NHKのアナウンサー山川静夫さんのエッセイに、陶工加藤唐九郎の話がある。
 唐九郎が若かりし頃、東京の美術関係者の集いがあって、そこに顔を出した時のこと。一人の老人が「龍の絵が描けない」とぶつぶつ言っていたという。絵心のある唐九郎は「龍などは特徴があるので簡単に描けます」
 と、答えて、ありあわせの筆と紙で一気呵成に龍を描いた。
 老人はその絵を見て感心し、「もらってよいか」と確認して、唐九郎が応諾するとそれをふところにしまって去っていった。
 その老人が大和絵の名手の富岡鉄斎だったということが、あとでわかって、唐九郎は「恥ずかしい思いをした」と述懐している。
 そのことを踏まえて山川さんはこう言う。
《いやいや、唐九郎さんが鉄斎の前で画いた龍は、おそらく、いきおいのいい、みごとな龍だったに違いないと。しかし、鉄斎の求め続けていた龍は、もっともっと奥深い、かたちを超越した“魂の龍”だったのだろう。》
 若き唐九郎は、青かろうとも唐九郎だった。それを鉄斎という名人は児戯のような筆の中にも認めた。本物は本物を見極めることができたのである。しかし、老成した本物は、若き本物よりさらに遠く険しい道を追っていた。そのことを唐九郎自身が知り、極めるには、数十年の歳月を要したことであろう。

 日野原重明先生の『死をどう生きたのか』(中公新書)に二代目猿之助の死にまつわる話が載っている。
 昭和38年3月の歌舞伎座公演で倒れた猿之助は、聖路加病院に入院した。担当が日野原先生である。この時、猿之助はかなり重篤な状態だった。にも関わらず、猿之助は日野原先生に執拗に頼みこんだ。
「今回の興行は、私の生涯の最後の舞台だし、孫の団子に猿之助を襲名させて、自分は猿翁となる披露をしたい。それにはなんとか千秋楽に、いっときでもよいから、その向上に舞台に上がりたい」
 重篤な容態の猿翁を舞台に上げるなどということはできる相談ではない。しかし、猿之助は役者として生き、役者として死にたいと願っている。危険はともなう。死期を早めてしまう可能性も高い。だが、猿之助の役者人生の最後の機会を医者が摘んでしまっていいものだろうか。日野原先生は悩みに悩んで、自分が看護婦とともに幕の裏に待機することで、猿之助に許可を出した。
 許可が下りたことで、猿之助は欣喜したという。命を長らえるよりも舞台で死にたい。そういうことなのである。
 ここでも日野原先生という本物と、猿之助という本物が出会って、お互いの正銘を確かめ合った。

 このところ読みまくっている曽野綾子さんも本物である。曽野さんはこう言う。
「人間は長い歴史の中で、たまたま自分が生まれ合わせた時代の、たまたまそこに居合わせた場所で、最善を尽くして生きればいいだけなのである。それ以上、小さな一人の人間に何ができるだろう」
 こうも言っている。
「どんなに凡庸に見えようとも人間の一生は(それを見抜く目さえあれば)どれも偉大であることがわかる」
 ワシャはこの時代、この場所で最善を尽くしているだろうか。自分のをも含めて人の一生を見抜く力があるだろうか。

 ワシャはよく「日暮れて道遠し」ということを自省的に書く。最近、そのことに疑問を持ち始めた。日は暮れかかってきている。しかし、ワシャは道を歩いていたんだろうか。先に向かって一歩一歩進んでいたのだろうか。
 唐九郎は鉄斎に恥じ入った。その時、彼は二十歳前後だったが、確実に遠き道を歩き始めている。鉄斎も鉄斎で、画家として大成していながら、それでも「魂の龍」を追って道を歩いている。
 猿之助は、歌舞伎役者という場所で最善を尽くして満足した死を迎えた。日野原先生は百歳をこえて、今日も人々に希望を与え続けている。
 曽野さんも文章を通じて、多くの悩める羊たちを救ってきた。

 いやいや、有名人ばかりではない。市井の人の中にも本物は数多いる。不景気の時も従業員を一人も切ることなく会社経営をしてきた町工場の大将。ボランティアで三陸に通いづめて、ついには体調を崩され亡くなられた街づくりの達人。
 目的をはっきりと掲げ、それにむかってまっすぐに進んでいける人は本物である。その目的は千差万別でいい。途中で倒れようともそこに向けてぶれずに生きていくこと、これが大切だと思う。
 しかし、ワシャは未だに暗中模索状態が続いている。困ったものだ。