阿Q

文藝春秋』の3月号はおもしろい。昨日、そう言った。去年もそう言っている。
http://d.hatena.ne.jp/warusyawa/20120211/1328916134
 3月号は芥川賞の発表も兼ねているし、それがあるから部数が伸びる。多くのにわか読者が増えるので、いきおい編集者も読者獲得のために記事をがんばるという構図だろう。
 特集の「司馬さんが見たアジア」の中に「司馬さんの炯眼 日本はアジアなのか」という鼎談がある。評論家の松本健一氏、作家の関川夏央氏、思想史研究家の片山杜秀氏が司馬さんを通して日本の奇跡を語り合う。
 内容は、広義の「儒教」に染まらなかった日本が「アジア的大停滞」の陥穽にはまらず維新を成し遂げた。その経験を生かし「脱亜」を目指そう、というもの。
 この「脱亜」は、単純な「脱亜」ではない。司馬史観に則った「脱亜」があるので間違えてはいけない。このあたりは司馬遼太郎の文明論、例えば『歴史と風土』(文春文庫)をご覧あれ。ちなみにその抜粋「日本、中国、アジア」が3月号に載っている。参考までに。

 おっと、司馬さんの話ではなかった。「阿Q正伝」である。鼎談の中で、関川さんが晩年の司馬さん――やっぱり司馬さんなんだけど――に触れ、こういっている。
《『台湾紀行』に「台湾は、名山の国といってもいい」と書き、中国文化とは異なるものがあると感じたから寛げたんじゃないですかね。それに日本の影響もあって人の気質が全然違います。阿Qがいない。》
 この「阿Q」の字を見て、久々に魯迅の「阿Q正伝」が読みたくなった。ワシャは岩波文庫版の『阿Q正伝・狂人日記』を持っている。それを引っ張り出してきた。学生時代に買ったのはどこかへいってしまって、7〜8年前に入手したものである。だから、まだ新しい。

 ここからが今日の本題。
 ワシャはこれを持って風呂に向かった。湯船に浸かりながらゆっくりと読むつもりだ。ワシャが風呂で読書をするのは、ご案内のとおりである。
 脱衣所にダイソーで買ったA4版のプラスチックケースが置いてある。そこにはガーゼタオルが敷いてあり、鉛筆、メモ用紙、何種類かの付箋が入っている。そこに本を入れて風呂場に持ち込む。バスタブの右側が棚のようになっているので、そこにケースを乗せる。棚の幅よりも、ケースのサイズ3分の1ほど大きいのだが、バランスさえ間違えなければ大丈夫なのだ。
 昨日は、まず本を濡らさないため手を拭く大きめのタオルを乗せた。併せて補給用のドリンクも置く。その上で換気扇を回す。冬場は少し寒いけれど、本を傷めることなく風呂読書をするためにはこれが必須である。最後に脱衣して「阿Q正伝」の入ったケースをもって風呂場に入った。
 ケースを棚に置く。ケースの中の「阿Q正伝」の位置が少し手前にずれている。でも、1冊だからケースの重みが優っているだろう。なんとかもつよね。そう思った。しかし、甘かった。ワシャが手を放した瞬間に、ケースは棚から落ちて、湯船に半分ほど沈没してしまった。
「しまった」
 あわててケースを救い上げたのだが、浸水いちじるしく「阿Q正伝」は言うまでもなく、付箋も鉛筆もびしょ濡れだった。そこからは大騒ぎ。濡れた文庫をタオルで拭いて、付箋だってまだ新しいから、水気をとっておかなければ。大雑把ではあるが一通り復旧作業を行って、ようやくのこと湯船に浸かったのだった。
「あ〜ぁ、まだ新品の文庫を一冊台無しにしてしまった(泣)」
 でも、湯船につかって「済んだことは済んだこと」と諦観してみればなんだかほっこりしてきて、些末なことはどうでもよくなった。気持ちが落ち着いてうとうとしはじめたときに「ハッ」とした。
 このいい加減なポジティブシンキング、自己内解決、自己満足、これは魯迅描くところの阿Qそのものではあ〜りませんか。
 そう思い当ったら、なんだか笑えてきたのでありました。