読書会は楽し

 一昨日の読書会。
 課題図書は、宮崎哲弥呉智英『知的唯物論』(サンガ)である。この本はご両所の対談からなっている。その対談を追っていくと、宮崎さんや呉さんがとても頭のいい人だということが理解できる。当たり前だけど。

 呉さんの話されたことを1つ。
《もう一つ考えておきたいのは、「我執」の問題。釈迦みたいに頭のいい人は、生活の苦しみがなくて自我の問題が肥大化したときに、それに対して答えを自分で見いだすことができた。それが見出せないのが「現代における自己という病」だよね。つまり我執です。これが今、深刻な問題になっていて、知識人といわれる人がこれに対する有効な処方箋を出し得ていない気がする》
 我執、つまり、自分だけの小さな考えに固執し、それが絶対なものと思い込み、自己を肥大化していく。「公」よりも「個」を優先するエゴイストがいかに増殖していることか。

 宮崎さんは難しい。
《社会全体の「独我論化」を進めているのは、先進成熟国において無敵の公共哲学に成り上がりつつあるリベラリズム、とくに個人の自立と自己決定に重きを置き、「人それぞれ」を揚言する主意主義リベラリズムにほかならない》
 言いたいことはなんとなくわかる。しかし、基礎的な哲学の知識がないとなかなか手ごわい。メンバーの一人は「解からない!」とさじを投げてしまった。
 ワシャにも難しい。しかし、白洲正子の「お能」についてのこんなフレーズを思い出した。
《下手の考え休むに似たりで、何百年もかけて完成した芸術が、個人の浅はかな智恵など寄せつけるはずもない。(中略)「人間は自由によって何一つしていない」とロダンはいった。また、「鳩が空を飛べるのは、空気の抵抗のせいだ」とは、たしかカントの言葉である。見かけ倒しの自由の中に道を失った現代人は、もう一度そこへ還って、本当の自由とはなんであるか、見直してみるべきだと思う。》

 結局、読書会の後半は、本の内容から派生した「教育」の話で盛り上がる。
 自己を肥大化させたぶよぶよの人間が増えたのは、突き詰めれば、個の自由を尊重しすぎる教育システムにその因があるのではないか、ということになった。
花伝書』にあるように、子供の頃は型にはめて、基本のところをしっかりと教え込んでいかなければいけない。子供に「ゆとり」など必要ないのだ。まさに「鉄は熱いうちに打て」である。それを4年間かけてF大学(フリーに入れる大学)で、モラトリアムとばかりに熱い鉄を冷ましてしまう。4年後、社会に出るころには冷めたグロテスクな鉄塊が出来上がるだけで、そんなものどう打とうがモノになるわけがない。

 たまたまメンバーの1人の息子が、実業系の高校を卒業して、地元の大手自動車部品メーカーに就職をする。そこには企業内職業訓練校があって、そこでじっくりと時間をかけて生産部門のプロフェッショナルを育てる。給料をもらいながらの勉強だから、厳しいにきまっている。しかし、必ず身になっていく。
 親の脛をかじって、4年間をぶよぶよと過ごしたF大生と、4年間鍛錬を続けたプロと、どちらが戦力になるか言うまでもない。
 実際に、そういった企業内職業訓練校を併設する企業はいくつかあって、そこへの就職はなかなか難しいそうだ。そしてそれに落っこちた出来の悪いのが、大学進学を考えるのだそうな。

 今朝の新聞に国公立大学2次試験の出願状況が掲載されている。東京大学は2倍から5倍あたりだが、地方の国公立だと22倍、34倍、45倍などというのもある。定員を割れるなどという心配はない。
 しかし、F大はほとんどが定員を大きく割り込んでいるので、阿呆だろうが、支那中国の偽装留学だろうが金のために受け入れざるを得ず、新学期を始めて見れば、支那中国人は首都圏に出稼ぎにいって行方不明、残ったのは「1/2+1/3=2/5」と答えるレベルの日本人。勉強熱心な幼稚園児ならそのくらいの計算は簡単にするぞ。
 そんな話で時間となり、駅前の居酒屋にしけ込んだのだった。

 いつもどおり大きく話がずれこんでしまったので軌道修正をする。冒頭の呉さんの言である。もう少し日本をまともにするために日本人は「我執」からの解脱が必要ではなかろうか。そして「知識人といわれる人がこれに対する有効な処方箋を出していくこと」が重要なのだろう。

 呉さんや宮崎さんの処方箋に期待したい。