寵臣の出世

 3月16日の日記「石の反乱」で明治の元勲である田中光顕が、時流にのってトントン拍子に出世したことを書いた。ところが世の中というものは広いもので、もっとトントンと出世した人がいる。
 徳川家の家臣、柳沢吉保である。NHK大河や民放の「忠臣蔵」で、必ず悪役として登場するでしょ。徳川綱吉を補佐し、権力を握る有能な幕閣である。
 吉保、元々、陪臣(ばいしん)でしかない。徳川宗家の直臣は大名、旗本、御家人である。大名の家来、旗本の家来は、陪臣とか又者(またもの)と呼ばれ、蔑まれてきた。

 そもそも、徳川綱吉上野国(こうづけのくに)館林25万石の大名だった。その時に綱吉配下の小姓組に吉保は所属している。当時は160石を給されていた。つまり、160石の米を生産する土地の領主ということになる。ただ、160石まるまるは手に入らない。細かいことは省くが、要するに五公五民であるならば80石の実入りということになる。現在の米価で考えると、400万円の年収ということになるが、全体の生活を見ると、雇人などもいたので、生活感覚から言えば2000万円くらいの収入を得ていたと思ってもらえばいい。
 話が長くなったが、吉保の栄華のスタートは、ここから始まった。
延宝8年(1680)7月、綱吉が五代将軍になる。吉保も綱吉の直臣として江戸城に入っている。11月に御小納戸役となり、翌年には830石に加増される。
天和2年(1682)200石を加増され、計1030石となる。かなり裕福な旗本といったところだろう。この翌年には、さらに1000石の加増があって、2030石。
元禄元年(1688)には若年寄の上座に定められ、1万石の加増を受ける。もう立派な大名である。その後、着々と加増され、元禄7年には7万2030石の中堅の大名まで、のし上がり、この翌年には老中格に昇進している。
 しかし、吉保の怒涛の出世は止まらない。宝永元年(1704)甲府15万1200石に封ぜられた。実は、この15万石というのは表高であって、実収は22万石である。ついに吉保、年収300億円の領主になったわけである。
 幕府内での地位も上昇し、老中上座、将軍に次ぐ権力者となった。新井白石は、その著作『折たく柴の記』の中で「老中みなみなその門より出で、天下大小事、彼朝臣(吉保)が心のままにて、老中はただ彼朝臣が申す事を、外に伝えられしのみにして」と書く。
 要するに、老中たちが、吉保にお伺いを立て、メッセンジャー成り下がったと言っている、と言っている。やはり優秀な人材でなければ、なかなか老中たちを呼びつけて、政策を実施していくという芸当はできまい。また、吉保、幕政ばかりではなく、己が藩の政治もきめ細かく取りしきっている。こういった例からみても、同じ成り上がりとはいえ、3月16日の田中光顕と比べ、柳沢吉保のほうが、かなりモノがいい。

 徳川綱吉が1646年生まれ、吉保が1658年に生まれている。12歳の開きというのは、まことに些末な例で申し訳ないが、自分自身に照らし合わせても、その年代の上司、何人かに引き上げられてきた。近すぎればライバルになり、離れすぎれば相手にされない。ちょうどいい年齢差なのだろう。

 なぜ、今日は、柳沢吉保なのか、みんなで考えてね(笑)。