もう少し談志がらみの話題を

 夏目漱石の小説『三四郎』の中に、柳家小さんが出てくる。
《小さんは天才である。あんな芸術家は滅多にでるものぢゃない。何時でも聞けると思ふから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。》
 漱石の絶賛する小さんは、実は三代目である。談志の師匠の小さんが五代目だから、談志は三代目小さんの曾孫弟子ということなる。
 この小さんが名人だった。どのくらい上手いかというと、漱石が『三四郎』以外でもあちこちで絶賛しまくっている。日本を代表する文豪がほめているのだから間違いあるまい。明治38年8月15日発行の『新潮』にもこんなふうに出ている。
《僕は落語家小さんの表情働作などは、壮士俳優のやるより余程甘(うま)いと思ふ。》

『落語ハンドブック』(三省堂)の名人列伝にも、柳家小さん(三代目)は名前を連ねている。
《江戸小石川の一橋藩士の家に生まれ、漢学塾などに学び、一六歳で家督を継いだが、遊芸におぼれ勘当されて常盤津太夫になり、名人林中について芝居に出勤。のち明治一五年ごろ初代柳亭燕枝門に入り、すぐに三代春風亭柳枝門に移って燕花となのる。》
 得意ものは『粗忽長屋』『碁泥』『寝床』『うどん屋』などだったという。

 残念ながら三代目小さんがどういう人だったか、どういう『粗忽長屋』をやったのか手掛かりがない。映像もなければ音源もないのだ。
『談志絶倒昭和落語家伝』(大和書房)の中にも出てくる。
《小さん師匠は『睨み返し』が絶品だった。なにせ、あの顔である。三代目小さん譲りだろう。けど、小さん師匠は三代目を知らないはずだが。》
 ここで談志が「小さん師匠」と言っているのは、五代目の小さんのことである。落語界初の人間国宝になった小さん、『男はつらいよ 奮闘編』にラーメン屋のオヤジとして登場する、まん丸の顔をした剣道の得意な小さんのことである。
 その五代目ですら、三代目を知らない。五代目が小林盛夫という名前で226事件に駆り出されていたころ、三代目はすでに鬼籍に入っている。
漱石の言うとおりだった。三代目小さんは「彼と時を同じうして生きてゐる」漱石たちのものだったのだ。
 霜月二十九日、大正の大名人三代目小さんの命日である。