司馬遼太郎は『国盗り物語』の冒頭を、斎藤道三の声について書き起こしている。
落ちついている。
声が、である。
この短い二つの文章から123万字に及ぶ大長編が始まる。
ページを1枚繰る。そこにも道三の声について「さわやかな声である」と書く。余程、司馬さんは、道三の声を読者に印象づけたかったのであろう。
さて、見出しの「たちあがれ日本」である。平沼赳夫、与謝野馨を核として立ちあがった新党なのだが、声がいけない。年齢は少々高いが、人物は高潔である。少なくとも高潔に見える。しかし、声がでないのは致命傷だ。
今から戦国という時代を切り開いていこうとする斎藤道三の声は、落ちつきがあり、さわやかでもある。だから、人心を掌握し軍を整えることができ、軍を率いて中原に鹿を逐(お)うこともできた。
司馬さんは他でも書いているが、戦国武将にとって「声」は重要な素質であった。マイクや拡声器がなかった時代に大軍を指揮するのに、よく通る張りのある声は必須のものだった。
現代の政治家でも同じだろう。政治家は、その声で政治を語り、政策を説く。その声が潰れていてはどうしようもない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100413-00000009-oric-ent
立川談志が、8ヵ月ぶりに高座に戻った。しかし、病気のために声が出なかった。このことを談志は恥じ、
「とにかく、高座の声が出にくくなった。長いセリフを無理に出しているのがわかるし、情景描写、落語のリズムもあったもんじゃない」
と前置きし、引退すらほのめかした。さすが大名人。
平沼さんも与謝野さんも政治家としてモノがいいことは充分にわかる。ヤクザの組長のような森喜朗や古賀誠などより人品骨柄ともに上等だ。でもね、政治家の命である「声」が出ないというのはやはり致命傷だと思う。後進に道を譲られたらいかがか。