城址にて その2

(上から続く)
 湖北、伊吹山系の端にある小谷城は、戦国中期の大永年間(1521〜28)に築城されている。造ったのは北近江一帯を押さえる戦国大名の浅井亮政(あざいすけまさ)である。その子、久政(ひさまさ)、孫の長政と3代にわたって近江78万石の半分以上を支配していた。長政の頃、東の尾張に天才が出現する。織田信長である。信長は尾張、美濃を基盤にして周辺諸国を併呑しながら上洛の機会を覗っていた。上洛の道を確保するためにその途上である北近江を押さえる長政とも姻戚関係を結ぶ。この時、長政に嫁いだのが信長の妹の市であった。戦国時代きっての美女と言われている市は小谷城に嫁いだ。
 この時期の信長は300万石を超える大封の覇者であった。これに対して長政はわずか40万石でしかない。この小大名が義のために信長を裏切り、小谷城で大敵の攻撃にさらされるのだった。

 実際に登ってみるとよくわかるのだが、この城は難攻不落の城と言っていい。切り立った稜線の沿って南北に砦が配置されている。これを下から攻めるのは大変だったろう。実際に落城の原因は、味方の内応によるもので、城そのものは織田軍の力攻めに屈しなかった。

 紅葉に染まりはじめた尾根の道を登っている。時折、木立の間から江北平野や遠く琵琶湖が見える。たぶん、平時には輿に乗ったお市や娘たちが眺望を楽しむために何度もこの追手道を上り下りしたことだろう。
 そんなことを思いながら立ち止まっていると、艶やかな錦の打掛をまとった一団がさざめきながら通り過ぎていったような、そんな錯覚を見た。

 日がかげってきた。江北の城跡に流れる風は冷たくなりはじめている。